山口 佐喜雄(やまぐち さきお、1902年2月13日 - 1945年ころ[1])は、日本の俳優である[2][3]。山口 佐喜男ともクレジットされた[3]。伊藤大輔、稲垣浩、山中貞雄、滝沢英輔らの作品の脇役俳優である[3]。
人物・来歴
1902年(明治35年)2月13日、京都府京都市に生まれる[1]。大阪市の今宮尋常小学校(現在の大阪市立今宮小学校)を卒業する[1]。
1926年(大正15年)、日活大将軍撮影所に入社、大部屋俳優となる[1]。1927年(昭和2年)12月、同撮影所の時代劇部が新設の日活太秦撮影所(のちの大映京都撮影所)に移転、翌1928年(昭和3年)5月31日に公開された、高橋寿康監督の『享保借春賦』で役がつき、クレジットされた[3]。1934年(昭和9年)には同撮影所が日活京都撮影所と改称、引き続き所属した[3]。
1937年(昭和12年)、大河内傳次郎らとともにゼー・オースタヂオ(のちの東宝映画京都撮影所)に移籍、同年8月11日公開された直木三十五原作、並木鏡太郎監督の『南国太平記』に出演する[3]。同年9月10日、同社が他の3社との合併により東宝映画を設立した[4]以降は、ひきつづき東宝映画に所属し、同社東京撮影所(現在の東宝スタジオ)作品にも出演した[3]。
1943年(昭和18年)1月3日に公開された長谷川一夫主演の『伊那の勘太郎』に出演しているが、同作以降の活動記録は不明である[3]。正確な没年月日は不明であるが、1945年(昭和20年)までの太平洋戦争の戦時中に病気により、死去した[1]。満年齢40代前半の没。
フィルモグラフィ
すべて出演作である[2][3]。
日活太秦撮影所
日活京都撮影所
- 『修羅道春秋 前篇』 : 監督辻吉朗、原作三上於菟吉、主演沢田清、1934年5月10日公開 - 役・本間照次
- 『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』 : 監督伊藤大輔、原作・脚色・応援監督伊丹万作、応援監督尾崎純、主演大河内傳次郎、1934年5月17日公開 - 役・寝ている侍
- 『へり下りの利七』 : 監督尾崎純、原作白井喬二、脚本山中貞雄、主演雲井竜之介、1934年8月8日公開 - 役・土手の政五郎
- 『流星』 : 監督・脚本西原孝、原作子母沢寛、主演沢田清、1934年9月24日公開 - 「山口佐喜男」名でクレジット、役・安東孝之亟
- 『半次ざんげ録』 : 監督尾崎純、原作子母沢寛、主演藤川三之祐、日活、1934年日公開 - 役・春島栄五郎(ぐれ旗本)
- 『修羅道春秋 後篇』 : 監督辻吉朗、原作三上於菟吉、主演沢田清、1934年日公開 - 役・本間照次
- 『新選組 前後篇』 : 監督・原作・脚本稲垣浩、共同脚本三村伸太郎、主演大河内傳次郎、1934年12月31日公開(初のトーキー出演)
- 『水戸黄門 密書の巻』 : 監督荒井良平、原作大佛次郎、脚本山中貞雄、主演大河内傳次郎、1935年1月15日公開 - 役・秋山耕之進
- 『水戸黄門 血刃の巻』 : 監督荒井良平、原作大佛次郎、脚本山中貞雄、主演大河内傳次郎、1935年4月3日公開 - 役・秋山耕之進
- 『小鼓兄弟』 : 監督菅沼完二、主演山本礼三郎、1935年4月25日公開 - 役・勤王党首領
- 『富士の白雪』 : 監督・原案稲垣浩、脚色梶原金八、主演大河内傳次郎、1935年5月15日公開 - 役・駿河屋藤兵衛(親分)
- 『お洒落旗本』 : 監督辻吉郎、主演澤村國太郎、1935年6月8日公開 - 役・座光寺源二郎
- 『関の弥太ッぺ』 : 監督稲垣浩 / 山中貞雄、原作長谷川伸、潤色梶原金八、脚本三村伸太郎、主演大河内傳次郎、1935年7月14日公開 - 役・湯村の磯五郎
- 『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』 : 監督・脚本稲垣浩、応援監督山中貞雄 / 荒井良平、原作中里介山、脚本三村伸太郎 / 武田寅男、主演大河内傳次郎、1935年11月15日公開 - 役・新徴組加藤主税
- 『海鳴り街道』 : 監督山中貞雄、原作三村伸太郎、脚本梶原金八、主演大河内傳次郎、1936年8月14日公開 - 役・代官三村甚左衛門
- 『お祭り佐七』 : 監督・脚本池田富保、主演尾上菊太郎、1936年9月1日公開 - 役・用心棒三木内左門
- 『栗山大膳』 : 監督・脚本池田富保、原作・構成三村伸太郎、主演大河内傳次郎、1936年11月12日公開 - 役・宮野清四郎
- 『丹下左膳 日光の巻』 : 監督渡辺邦男、原作林不忘、脚本山上伊太郎、主演大河内傳次郎、1936年12月31日公開 - 「山口佐喜男」名でクレジット、役・髭の門弟
- 『大岡政談 海賊船』 : 監督益田晴夫、脚本京都伸夫、主演尾上菊太郎、1937年2月11日公開 - 役・海坊主
東宝映画
註
外部リンク