少年への性的虐待
少年への性的虐待(しょうねんへのせいてきぎゃくたい)とは男児・少年に対する児童性的虐待である。 アメリカ合衆国でのLewis Harris and Associates, Inc.による、1996年12月から1997年6月にかけての少年3,162人への虐待に関する直接的質問による調査報告によれば、少年への性的虐待率は全体で5%だが、アジア系に限れば9%と、白人(3%)や黒人(3%)よりかなり高い値が出た[1][リンク切れ]。また、日本におけるものとしては「子どもと家族の心と健康」調査委員会による1998年の調査があり、299人の男性から回答が得られたのだが、それによれば18歳までの期間に性的虐待を受けたと報告した男性の率は10.0%とされる[2]。 概要性的虐待を受けた男性の場合、性的自己尊重感尺度の得点が女性よりも全般に低い。デイビッド・フィンケラーの調査によると、通常は男性52.4ポイント、女性51.6ポイントと性的自尊心は女性のほうが低いのであるが、性的虐待を受けた場合男性40.9ポイント、女性45.7ポイントである[3][リンク切れ]。 子供に対する性的幻想を持つことも多く、加害者の多くがかつて性的虐待を受けていたという調査結果もあるが、一方で多くは加害者にはなっていないことも知られている(チャイルド・マレスターの項目も参照)。 全般的に性的虐待を受けた男性は気持ちをなるべく安定させるために強迫行動に走ることが一般的と見られている。この行動としては仕事中毒や金銭の強迫的消費、賭博などが挙げられ、これらは高揚した気分になることで自らの感情を再確認する手段でもあり、また時に不特定多数との性行為を行ったりすることもあり、これらの性行動は自身をトラウマに遭った状況に戻し、解離性トランスを促したり、ストレス誘発性痛覚消失物質オピオイドの発生も促すことができる一方、これらの行動は同時に解離をより酷くしかねないため、自身の危機意識はさらに低下してしまい、HIVなど性感染症のリスクも高め、危険な人物との性行為を拒むことが出来なくなる可能性もある[4]。 多くの男性の性被害者は男性に恐怖をもつ[5]。これは加害者が男の場合に顕著であるが、加害者が女の場合にも見られる。これは、ほとんどの男性は性的虐待を受けるという事実が何を意味するのか分からないと感じるために起こる反応である。ただし、加害者が女の場合にはその反応は複雑で、女に対しては激しい怒り・憎しみを催しやすい。 男性が性的虐待を受けた場合、感情を表現しない自己、能動的な自己、甘えたがりの自己、被害を受けた自己、行為者としての自己、女性化された自己、放蕩者の自己、過度に男性的な自己、少年の自己などの自己状態が現れる。こうした複数のパーソナリティ・タイプが一人の人間の中に混在し続けると、女児同様に解離性同一性障害をきたすこともある。 加害者が男の場合加害者が男の場合は男児が同性愛であれ異性愛であれ自分自身の性的指向や性的同一性に危機をもたらしやすい。 この危機が激しくなりやすいのはどちらかというと異性愛の男性である。さらに、虐待時どれだけ自分の性的指向と性自認について自己認識がはっきりしていたかを考慮すると、この問題に関する議論はさらにややこしくなる。かなり低年齢の場合性自認に疑問を持つことが多いが、ある程度年齢が上がり性自認の自己認識がはっきりしてきたときであっても、今度は性役割のほうに不安を持ったりもする。たとえ性自認が安定していても、自分が主に同性愛か主に異性愛かがよく分からないときに虐待を受けた場合には自分が本来的に同性愛か異性愛か両性愛かとか様々に疑問を持ちやすい。 性的虐待を受けた男児が必ず同性愛者ではないかという誤解は本人と社会に共通のものだが、これは誤解である。だが性的虐待を受けた男児は異性愛であっても、被害を受動にし、同性愛に結びつけた結果として自分自身の性的指向の認識に著しい混乱をきたす。虐待の最中に勃起や射精が起こった場合、この混乱はより激しいものとなる。ペニスを挿入され前立腺を刺激されれば本人がどんなに嫌だと思おうと勃起する事が多いのであるが、こうした常識が日本に浸透しているとは言いがたい。 こういった性的虐待の場合には性的指向のセクシュアリティが揺らぐことが多いが、これは本人に激しい苦痛を与える。だが、性的指向を二分法で捉えがちな社会の常識に反し、実際には性的指向のセクシュアリィは複雑で多層的であるとアルフレッド・キンゼイは主張した。 また、異性愛中心主義(ヘテロセクシズム、または異性愛嗜好・ヘテロフィリアとも呼ぶ)に基づく同性愛恐怖(ホモフォビア)の問題も絡む。ホモフォビアはそれ自体性的虐待と呼んでもよいほどの偏見であり、実際には全く同性愛は異常ではない(詳細は同性愛の項目を参照)。 ここで重視すべきなのは性的行動は性的指向ではないという事実である。フィンケラー (1981, 1984) のように、同性愛的傾向を持つ少年のほうが被害に遭いやすい可能性はあるが、ゲイの男性の性的虐待の被害経験の多さから同性による性的虐待が同性愛指向を助長しているのではないかという意見も存在したが、これに対しては性的指向は6〜12歳(ジークムント・フロイトの言う潜伏期)より前に成立すると多くの専門家は認めているにもかかわらず事例はその後に起こることが多いという指摘や、さらにSimariとBaskin (1982) の研究においてほとんどの性的虐待を受けたゲイ男性が自身の同性愛指向をはっきり気づいていたという事実との矛盾など、そう簡単に性的指向が変動するものではないという反論も多い[6]。 またゲイの男性の場合、ゲイとしてのアイデンティティを確立する途中において孤独感に苛まれる男児は多いが、その際に性的虐待があったために、性的虐待の事実が自分の孤立感を癒した体験に摩り替わってしまう危険性もある。ゲイであろうと性暴力に伴う屈辱は変わりはないが、そういった屈辱を自らの内に秘めてしまうことが多いようである。 また、加害者が異性愛であるように周囲に振舞っていた場合、子供は同性愛タブーというものを無意識に感じ取りタブーの侵犯意識は非常に強くなる。 加害者は同性愛者かかつて、加害者は同性愛者と考えられてきたが、近時の研究では異性愛者も多いと考えられている。 GrothとOliveri (1989) は小児性愛者3,000人以上を対象にして、彼らを3つのグループに分けた上で研究を行った[7]。一つは少女や少年のみに惹かれる者、もう一つは特に子供に対象が固定されていない者、最後が成人指向から退行した者である[7]。彼らによると、もし同性愛を主に「成人の」男性の対象に限定したものとすると、実際上少年愛者は絶対に同性愛者ではないという[7]。この研究においては、成人男性を指向していた人間が少年を食い物にしたという事例は「全く」存在せず、さらに、特に子供に対象が固定されていない場合や、成人指向から退行した男性は「全て」自分のことを異性愛者だと述べており、実際ホモフォビアである事が多かったという[7]。 もっとも、常に挿入する側に立てば自分は異性愛者だと思う場合もあることも考えなくてはならない。例えば、1940年代まではニューヨークの同性愛者の男性は「トレード」(男性的)と「クイア」(女性的)という様に分けていた。このような考え方の場合はたとえ同性愛者であっても「自分は異性愛だ」と述べる可能性もある。 京都府警科学捜査研究所の宮脇かおり(2013)は、2012年までに某5府県で検挙された男性わいせつ犯のうち、犯行対象(被害者)に男性の年少者(幼児・小学生)が含まれるものを収集し、犯行特徴および加害者属性に関する情報を抽出している。調査では、男性の年少者に対するわいせつ犯のうち、女児も対象とする率は12.4%であり、犯罪経歴がないものに限れば7.0%であった。[8] 加害者が女の場合→「女性による性的虐待」も参照
加害者が女の場合でも深刻な問題がある。こうした場合は性機能障害やセックスに対する嫌悪が起きやすい。なかなか男性はその心の内を見せない傾向があるが、こうした被害を受けた男性は社会が感じている体験と自分自身が感じている体験のズレに苦しんでいると言われる。彼らは多くセックスを嫌悪するが、一方で加害者の女に対する怒りを別な形で示すため、大抵異性関係が奇妙なものになりやすい。女からの加害が存在しないと考える文化的神話のために、少年も少女同様その時には屈辱感を味わったにもかかわらず、幼い頃の性的虐待行為を、成長した後に『大人の感覚で楽しめない自分が性的に未熟だったのだ』と事後的に無理に意味を改定してしまうケースが多い。それが恋なのだろうと無理に自分を騙す事も少なくない。しかし、実際にはその心的外傷自体は少女のそれとほとんど同じなのである。 男性は傷つかないのか
フィクションでの描写2006年7月にNHK教育テレビのドラマ枠『中学生日記』の中で、男子中学生に対する臨時コーチの男からの性的虐待をテーマとして取り上げた回が放映された。また、「くそみそテクニック」などで知られる漫画家の山川純一の作品にも大人の男から少年への性的虐待シーンが度々登場する。 男性性被害者といわれる著名人近親者によるもの
第三者からのもの
出典
参考文献
関連項目
事例外部リンク
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