小高城
小高城(おだかじょう)は、福島県南相馬市小高区(令制国下:陸奥国行方郡小高)にあった日本の城(平山城)。別名「紅梅山浮船城」。福島県指定史跡[1]。 歴史南北朝時代に、北畠顕家率いる南朝の軍勢に対応する為に建設され、建武政府下の1336年に攻められ一度陥落している。翌年1337年に城を奪還してからは、第16代当主相馬義胤が本城を牛越城や中村城に移転するまで、約260年間に亘って相馬氏の居城であった。 城の北東から伸びる比高10メートルほどの丘陵の頸部を堀切で切る形で城を作り、城の南を流れる小高川を外堀としている。城の西から北にかけては水田が巡っており、堀であったと想定される。このように三面を水域と湿地で囲まれていたため、浮船城と呼ばれていたという。現在は城の東に弁天池と呼ばれる堀跡が残っている。 大手は東側で、現在作られている南側の参道は遺構とは無関係である。城の一部に土塁跡が残り、特に神社裏・北面の保存状況が良い。 城の規模は小さく、主郭以外の曲輪は小さく未発達であるため、実戦向きとは言い難い。防御力の低さを補う為に、付近の丘陵に複数の出城があったといわれており、この城地の狭さゆえであると思われる。 相馬氏が小高を本拠地にした要因は、南隣の岩城氏(本拠地:四倉、飯野平)を牽制する目的であった。ところが、北隣の伊達氏(本拠地:米沢、岩出山)との抗争が激化すると、相馬氏は中村に城代を置いて伊達氏と睨み合った。 1600年の関ヶ原の戦いでは、相馬氏は佐竹氏(本拠地:常陸太田、水戸)に与した為に、関ヶ原の結果として領地を没収された。しかし、伊達政宗が相馬義胤を擁護して徳川幕府を説得した為に、相馬義胤は旧領である浜通り夜ノ森以北への復帰を果たし、1611年には本拠地を城代所在地であった中村城に完全移転して、中村藩を立てた。この本拠地移転も、この小高城の狭さゆえであると思われる。 現在は本丸跡の平場に相馬氏の守護神である天之御中主神[2]を祀る相馬小高神社が建っており、相馬野馬追祭りの時に、裸馬を素手で取り押さえ神社に奉納する「野馬懸け」の場所として知られている。 城跡は1958年(昭和33年)8月1日付けで福島県の史跡に指定された[1]。 なお、茨城県行方市麻生にも同名の「小高城跡」が存在するが、こちらは行方宗幹の子太郎定幹によって築かれた。 アクセス脚注関連項目 |