小野賢三郎
小野 賢三郎(おの けんざぶろう、1889年(明治22年)6月2日[1] - 1964年(昭和39年)7月1日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴1889年(明治22年)に宮城県で生まれた[1]。陸軍士官学校第22期、陸軍大学校第35期卒業[1]。1934年(昭和9年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に松本連隊区司令官に着任した[2]。1935年(昭和10年)12月に歩兵第5連隊長に転じ[2]、1936年(昭和11年)8月に第2師団司令部附となり[2]、東北帝国大学に配属された[2]。 1938年(昭和13年)3月1日に陸軍少将に進級し[2]、新規編制された歩兵第133旅団長(北支那方面軍・第110師団)に就任して日中戦争に出動[1]。京漢線石門地区の警備に任じつつ[1]、冀西、晋察冀辺区などでの作戦に出撃した[1]。1939年(昭和14年)8月1日に留守第2師団司令部附となり[1]、8月30日に待命[2]、9月3日に予備役に編入された[1]。1941年(昭和16年)12月1日に召集され留守第2師団兵務部長に就任し[1]、1943年(昭和18年)6月に第43師団兵務部長に転じた[1]。1945年(昭和20年)3月31日に仙台師管区兵務部長に就任した[3]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。 栄典
脚注参考文献
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