おがわ しげじろう
小河滋次郎 |
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小河滋次郎 |
生誕 |
(1864-01-11) 1864年1月11日 信濃国上田 |
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死没 |
(1925-04-02) 1925年4月2日(61歳没) |
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国籍 |
大日本帝国 |
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別名 |
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教育 |
法学者(監獄学) |
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出身校 |
東京帝国大学法科大学 |
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親 |
金子宗元(実父) 小河直行(養父) |
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受賞 |
- 銀杯一個
- 正五位
- コマンドールドロルドルロワイヤルヂュカンボジュ勲章
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小河 滋次郎(おがわ しげじろう、文久3年12月3日(1864年1月11日) - 大正14年(1925年4月2日)は日本の法学者、官僚。
経歴
信濃国上田城下で上田藩医・金子宗元の次男として生まれ、明治維新後に旧小諸藩士・小河直行の養子となる。上田藩校明倫堂の後身校「松平(しょうへい)学校」を1877年に卒業後、上京。1884年旧制東京専門学校(早稲田大学)法律学科卒業、1886年東京帝国大学法科大学(現東京大学大学院法学政治学研究科)修了(選科生)。東京帝大選科在学中、穂積陳重の指導を受けて監獄制度に関心を持つ。
1906年(明治39年)8月8日、法学博士号(東京帝国大学法科大学)授与[1]
内務省警保局監獄課に属し、ドイツに留学し監獄状態を視察。1897年に警視庁典獄(監獄長)となる。監獄法制定に於いては起草者を助け実務を担当した。1905年、「未成年者に対する刑事制度の改良に就いて」で法学博士となり、東京帝大などで監獄学の講師を務めた。
1908年、清国政府に招かれ獄制改革を4年間指導。帰国後、1913年に大阪府の救済事業指導嘱託となり、国立感化院院長事務取扱を経て、1918年に方面委員制度(民生委員の前身)の確立に尽力した。
栄典
- 外国勲章佩用允許
主著
脚注
- ^ 『官報』第6934号、「彙報 - 学事」1906年08月09日。
- ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
- ^ 『官報』第8142号、「叙任及辞令」1910年08月11日。
- ^ 『官報』第4106号、「叙任及辞令」1897年03月13日。
参考文献
関連リンク
外部リンク