小坂善之助
小坂 善之助(こさか ぜんのすけ、嘉永6年7月15日(1853年8月19日) - 大正2年(1913年)12月21日)は、日本の政治家、実業家。長野県会議員、衆議院議員を務めた。 概要明治23年(1890年)の帝国議会開設以来、4回衆議院議員に当選、中央政界に活躍するかたわら、信濃銀行(現みずほ銀行)を興し、山国長野県の豊富な水資源に着眼して長野電灯を創業、県下で最初の水力発電所をつくった。また信濃毎日新聞の基礎を固めた[3]。 来歴・人物生い立ち信濃国水内郡里村山村(1881年村山村に改称、現長野市)出身。父は3代目善之助(隠居名善三)。善之助の家は3代前に分家したもので、本家は代々名主を務めた豪家だった。 善之助は、少年時代から村の大将格で、村芝居ではつねに主役をつとめた。1878年(明治11年)、家督相続し善之助を襲名した。 政治家として1878年(明治11年)に故郷の里村山村の戸長に選ばれたことが、政治家の道に進むきっかけとなる。1881年(明治14年)に上水内郡選出の長野県会議員となり、1883年(明治16年)には更級郡・埴科郡の郡長に抜擢、次いで南安曇郡・北安曇郡の郡長に抜擢され、道路の改修と橋梁の建設に心血を注いだ。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で長野1区から衆議院議員に初当選し、以降3期連続で当選した。一時政治活動から身を引くが、1902年(明治35年)に立憲政友会に入党、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で4度目の当選を果たし復活する。しかし翌1905年(明治38年)6月15日に劇症の脳溢血で倒れたのを機に引退した。 実業家として1881年(明治14年)に信濃日報社の社主・小野憶之進から経営に参画せよとの要請を受けたのを機に、実業界にも進出する。1889年(明治22年)に彰真社(信濃銀行、のち安田銀行へ合併(現みずほ銀行)、八十二銀行に合併した信濃銀行とは別組織)を設立して頭取となり、1897年(明治30年)には長野電灯を設立し、長野市郊外の上水内郡茂管村(現:長野市)に水力発電所を建設して電力史の一ページを飾る。小坂の実業家としての方針は「地域の発展に終生尽くす」であり、実際日本勧業銀行(のちに第一銀行と合併して第一勧業銀行、現在は富士銀行・日本興業銀行と合併してみずほ銀行)が設立された際、副総裁に推薦されたものの辞退していたほどであった。 信濃毎日新聞の父として『信濃日報』は、ライバル紙『信濃毎日新報』との苛烈な販売合戦の影響から経営が悪化していた。『信濃日報』の経営に着手した小坂は、ライバル紙を吸収合併させ、信濃新聞社が発行する『信濃毎日新聞』として再刊行させることで廃刊の危機を乗り越え、秩父事件で初の号外を刊行させるまでに回復させた。 1883年(明治16年)に経営の一切を岡本孝平に譲ってからは信濃毎日新聞の経営からは手を引くが、1898年(明治31年)12月に岡本の後を受けて2代目の株式会社社長に就任した(1890年(明治23年)5月1日に株式会社として発足、初代社長は岡本だった)。山路愛山を初の主筆に迎えて編集の独立を確立し、「社長といえども紙面に干渉せず」の方針で紙面の近代化を図った。 1902年(明治35年)に取締役の前島元助に社長の座を譲るが、1904年(明治37年)社長に復帰する[4]。劇症の脳溢血で倒れた後、1903年(明治36年)から取締役の長男小坂順造が社長代行として経営にあたり、1911年(明治44年)に回復しないまま順造に社長職を禅譲している。 1913年(大正2年)12月21日に小坂が死亡した際、『信濃毎日新聞』は第2面を訃報に充てている。墓所は多磨霊園。 家族・親族
脚注参考文献
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