寺本熊市
寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月3日[1][2] - 1945年(昭和20年)8月15日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴和歌山県出身[1][2][3]。八幡社神官・寺本政吉の息子として生まれる[1]。五条中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる[1][4]。陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した[1][2][3]。翌月、歩兵第10連隊中隊長に就任[1]。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀を歴任[1]。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵大尉となる[1]。同年8月、航空兵少佐に昇進し飛行第2連隊付に発令[1]。1926年(大正15年)8月、陸軍航空本部員に転じ、1927年(昭和2年)12月、航空本部付として陸大専攻学生となった[1]。1928年(昭和3年)12月、アメリカ大使館付武官補佐官に就任[1]。1930年(昭和5年)3月、航空兵中佐に進級[1]。1931年(昭和6年)2月、参謀本部付となり、同年5月に帰国[1]。同年6月、航空本部員に就任[1]。1933年(昭和8年)8月、航空兵大佐に昇進し飛行第8連隊長に着任[1][3]。 1934年(昭和9年)11月、臨時飛行第2大隊長に転じ満州事変に出動[1][2][3]。飛行第16連隊長、航空本部員、留守航空兵団参謀長を歴任[1][3]。1937年(昭和12年)11月、陸軍少将に進級し浜松陸軍飛行学校幹事に就任[1][2][3]。1938年(昭和13年)6月、航空兵団参謀長に異動し日中戦争に出征[1][2][3]。浜松飛行学校長を経て、1940年(昭和15年)8月、陸軍中将に進み第2飛行集団長となり満州に赴任し太平洋戦争を迎えた[1][2][3]。 1942年(昭和17年)4月、第2飛行集団が第2飛行師団に改編され師団長となる[1][2][3]。1943年(昭和18年)5月、第1航空軍司令官に就任し東京に赴任[1][2][3]。同年7月、第4航空軍司令官に転じ[1][2][3]、ニューギニアの航空戦を指揮し[要出典]、その後、フィリピンの防衛に当たる[2]。1944年(昭和19年)8月、航空本部付となり帰国し、陸軍航空審査部本部長事務取扱、航空本部長を歴任[1][2][3]。終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月15日に自決した[1][2][3]。 栄典
脚注
参考文献関連項目 |