富田親家富田 親家(とみだ ちかいえ、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武蔵国児玉党の武士(現在の埼玉県本庄市出身)。児玉党系富田氏の祖。通称は三郎。富田氏館(武州)初代館主。 児玉党系富田氏の祖児玉党の本宗家3代目である児玉家行の三男として生まれ、父家行より児玉郡西富田郷若泉庄の富田(現在の本庄市大字富田)の領地を与えられ、西富田堀の内に移住[1]。富田三郎親家を称して富田氏の祖となった。『吾妻鑑』『鎌倉武鑑』には、富田近家の名で記載されている。兄は2人おり、児玉党本宗家4代目である庄太夫家弘と塩谷平太夫家遠がいる(そのため、庄氏と児玉党系塩谷氏は同族である)。子に富田太郎近重らがいる。 一説に親家が活躍した時期から考えて、富田氏は児玉氏の血族ではなかった(親家は家行の息ではない)とする説もあるが、ここでは系図と通称に従って記載する。 坂東の大力武士大力(強力)を誇った武士として坂東にその名を知られており、そのおかげで助かった経歴を持つ。建保元年(1213年)、和田義盛が北条氏打倒の為、挙兵した際(和田合戦)、親家は和田氏軍に味方して出陣し、幕府軍に捕らえられた(将軍家に親家の力芸を観させるため、そのまま相模国鎌倉に送られた)。鼎(かなえ)を持ち上げ、石をも砕く[2]と言う親家の怪力話を聞いた三代将軍源実朝が親家を呼び、その怪力を試すべく、大鹿の角を差し出し、これを折る様に指示した。親家はこれを2本同時に折って見せ、実朝と列座していた一同を感心させ、その罪を許されて、紀伊国の領地を与えられた。親家はこれに深い恩義を感じ、それ以後は忠臣として活動し続け、その子孫も忠義を尽くしたと『吾妻鑑』に載る(承久の乱で子息達の活躍と討死になどが記されている)。 その他
脚注参考文献
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