宮崎学 (写真家)宮崎 学(みやざき まなぶ[1][2][3][4][5][6]、ただし公式ウェブサイトなどでは「みやざき がく」と読ませている[注 1]、1949年8月10日 - )は、日本の写真家である。長野県駒ヶ根市在住。 日本各地の野生動物を被写体とすることが多いが、本人は「動物写真家」と呼ばれることを嫌っており「自然界の報道写真家」を自称している[1]。撮影には、赤外線センサなどとカメラを組み合わせた自作の無人撮影装置を使うこともあり、一般的には撮影困難な野生動物の生態をも数多く写真に収めている。猛禽類などの生態写真に関しては、1980年代から日本の第一人者[7]とされている。 経歴少年時代1949年、長野県上伊那郡南向村(後の中川村)にて生まれた。動物への興味が強く、木に登ったり、野鳥の声を聞き分けて巣を見つけたりするのが得意な少年であった。様々な小鳥を大切に飼っていたが、小学校6年生の時(1961年)にすべて、野へ放している。この直前、可愛がっていたリスが籠の中でヘビに食べられ絶命したことに強いショックを受け、野生動物を飼うことは無慈悲な行為だと思うようになり、小鳥を野に放つ行動に至った。その後も鳥への興味は変わらず、中学生時代は伝書鳩に熱中する生活を送っている。 アマチュア時代中学卒業と同時にバス会社へ就職し、後に駒ヶ根市の光学機器メーカー「信光精機株式会社」へ転職した。もともとカメラには特に興味が無かったにもかかわらず、職場で一眼レフ用交換レンズを見てからは強く惹かれるようになり、写真を撮り始めた。雑誌『アサヒカメラ』に連載されていた田中光常の記事を教科書代わりにして動物写真の技術を磨き、ムササビの写真で同誌の月例コンテストに入選。カメラを触り始めてから1年足らずでの入選であったことから、ますます動物写真に意欲を燃やし、さらに冬眠中のコウモリの写真で再度入選を果たすと、次はニホンカモシカの生態を撮りたいと思うようになる。当時、野生のニホンカモシカは数が少なかったため撮影は難しいとされていた。宮崎は地元の山岳会に1年半のあいだ所属し、自力で登山できるようになってからはカモシカの観察・研究に注力するが、無理がたたって肝臓や腎臓を患い入院生活を余儀なくされる。会社を辞めて静養した後、アルバイトで資金を稼ぎつつ野生動物を撮影する生活を始め、1969年にはニホンカモシカの写真で同年版『アサヒカメラ年鑑』への入選を果たす。また、大阪の出版社「千趣会」の編集者や、児童文学作家の今江祥智と出会う機会があり、2人からカモシカの写真を高く評価されて写真絵本の出版が決まった。その後、胃潰瘍での再入院を乗り越え、1972年には写真絵本『山にいきる にほんかもしか』でプロ写真家としてデビューした。 プロデビュー後デビュー後もしばらくはアルバイトで生計を立てる日々が続いた。今江はあかね書房、福音館書店などの出版社に宮崎を紹介してくれたほか、1974年には宮崎をモデルにした創作童話『水と光とそしてわたし』を世に出している。1977年、宮崎の写真絵本『ふくろう(かがくのほん)』が出版され、翌1978年に同書が第1回絵本にっぽん大賞を受賞[2]した。同年(1978年)、銀座ニコンサロンにて初の個展「けもの道」を開催。この個展では、信光精機の経営者と共に開発した無人撮影装置で撮った、夜間の登山道に出没する様々な動物の写真を展示した。その後、宮崎は日本で営巣する鷲・鷹16種すべての生態を撮ることに成功し、1981年に写真集『鷲と鷹』として発表。八重山列島に棲むカンムリワシの成鳥や雛鳥など、撮影された前例どころか観察例すら無かった[7]生態写真も掲載されていたこの写真集は、翌1982年に日本写真協会賞新人賞を受賞[8]している。1990年、写真集『フクロウ URAL OWL』で宮崎は土門拳賞を受賞[3]。動物写真での同賞受賞は過去に例が無いことであった。1994年、野生動物の死体が山の中で土に還るまでの過程を撮り続けた写真集『死 Death in Nature』を発表し、翌1995年に日本写真協会賞年度賞を受賞[8]。同年(1995年)、台所用洗剤のキャップを被って暮らすヤドカリや、癌に冒されたタヌキなど、人間社会の影響を強く受けて暮らす生物たちを写した写真集『アニマル黙示録』が出版され、宮崎は同書と『死 Death in Nature』で講談社出版文化賞写真賞を受賞[9]している。2002年、著書『アニマルアイズ・動物の目で環境を見る』シリーズで第4回学校図書館出版賞を受賞[10]。2004年、公式ウェブサイト「宮崎学(がく)写真館 森の365日」で信毎ホームページ大賞2004エプソン賞を受賞[11]した。 活動主な個展
著書、編書など
出演脚注注釈
出典
関連項目
参考資料
外部リンク |