安詮院貞熊安詮院 貞熊(あぜぶ さだくま、1889年〈明治22年〉4月27日[1] - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市尹、台中市尹。 経歴熊本県玉名郡伊倉町大字伊倉出身[2][3]。1903年(明治36年)玉名郡南都尋常高等小学校卒業[4]。1904年(明治37年)7月、熊本県小学校准訓導検定試験に合格し、玉名郡賢木小学校准訓導となる[2]。1907年(明治40年)熊本県師範学校を退学[5]。1912年(明治45年)3月、殖産局林業講習所を卒業する[5]。 ついで、1915年(大正4年)文官普通試験合格後、翌年、新竹市庁に出仕[1]。1920年(大正9年)3月に台湾総督府営林局書記、同年同府属、1932年(昭和7年)台湾総督府地方理事官を経て、台北州基隆郡守となる[1][5]。その後、1936年(昭和11年)12月28日付けで彰化市尹に就任し、さらに、1939年(昭和14年)4月から翌年6月まで台中市尹を務めた[1][6]。退官後は、台湾新聞常務を務めた[6]。 戦後、堂園砕石土建取締役を務めた[7]。 栄典
脚注
参考文献
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