安藤直行
安藤 直行(あんどう なおゆき)は、紀伊国田辺藩の第17代藩主(知藩事)。明治維新後は華族に列し、貴族院議員や日本帝国小銃射的協会(現在の日本クレー射撃協会及び日本ライフル射撃協会)理事[1]などを歴任した。位階は従三位[2]。勲等は勲四等。爵位は男爵。 生涯安政5年(1858年)11月20日、紀州藩附家老・田辺安藤家16代安藤直裕の四男[3]として江戸小石川水道町(現在の東京都文京区水道)の安藤家上屋敷にて誕生[4]。幼名は徹福丸。文久3年(1863年)3月に家督を相続したが[5][6]、ほどなくして父が当主に復帰している。 明治4年(1871年)10月27日、従五位に叙位し、翌28日に元服した上で昇殿を許され、明治天皇に拝謁する[4]。父の隠居により同年11月8日に再び家督を相続する。明治6年(1873年)6月12日に天皇の御座所である旧江戸城西の丸御殿が焼失したため、営繕助役として金100円を献納する。明治9年(1876年)11月5日、小石川水道町の自邸を旧越前福井藩主・松平茂昭に譲り、直行は深川安宅町6番地(現在の江東区新大橋)に転居した。 三河安藤氏は藤原姓を自称していたが、これは安倍姓を藤原姓に改めたものであるとして、明治9年(1876年)10月16日に宮内省に安倍復姓を願い出て、翌明治10年(1877年)1月19日に復姓が認められると皇別に編入された[4]。明治17年(1884年)7月8日に特旨をもって華族に列し、男爵に叙される[7]。明治30年(1897年)7月10日の第2回伯子男爵議員選挙で初当選し、貴族院議員に就任[8]。明治33年(1900年)6月20日、正四位に叙位。明治39年(1906年)4月1日、日露戦争の功により勲四等旭日小綬章を受章[9]。 明治41年(1908年)3月6日、死去。同日付で従三位に叙位。家督は長男の直雄が継いだ。 系譜脚注参考文献
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