安岡正臣安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月21日[1][2] - 1948年(昭和23年)4月12日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴鹿児島県[1][2][3]、後の川内市[4](現・薩摩川内市御陵下町[5])で、安岡正陸軍大尉の息子として生れる[1]。川内中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業[1][2][6]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第43連隊付となる[1][6]。陸軍戸山学校で学び、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(第26期)を卒業した[1][2][3]。 陸軍省軍務局課員、歩兵第51連隊大隊長、第9師団参謀、歩兵第29連隊付、第16師団参謀、歩兵第49連隊長、第5師団参謀長などを歴任し、1935年(昭和10年)3月、陸軍少将に進級[1][3]。 歩兵第30旅団長、陸軍戦車学校長を経て、1938年(昭和13年)3月、陸軍中将となった[1][2][3]。独立混成第1旅団長を経て第1戦車団長に就任[1][3]。ノモンハン事件に出動、ソ連軍と交戦し多大な損害を被った[2]。留守第3師団長を経て、1941年(昭和16年)3月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]。1942年(昭和17年)7月、陸軍司政長官(スラバヤ州知事)に就任し終戦を迎えた[1]。1945年(昭和20年)12月、戦犯容疑で逮捕され、1948年4月に蘭印で刑死した[1]。 栄典
親族脚注参考文献
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