宇喜多秀高
宇喜多 秀高(うきた ひでたか)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武士。宇喜多秀家の嫡男。母は前田利家の娘で豊臣秀吉の養女の豪姫。官位は従四位下侍従。通称は孫九郎[5]。別名は秀隆[1]。 生涯天正19年(1591年)7月、備前岡山の大名・宇喜多秀家と豪姫の次男として生まれる(『北野社家日記』)[6]。出産は京都の秀家屋敷であったとみられるが、豪姫は出産後病気となり吉田兼見の祈祷を受けている[7]。 秀家と豪姫の間には既に天正17年生まれの長男がいたため、秀家は北野社の祠官・梅松院禅永に次男を養子として差し上げることを申し出ている[8]。しかし禅永は姉または妹のおさこが豊臣秀次の側室であったため、文禄4年(1595年)の秀次事件によるおさこの処刑に伴い逐電しており、もし養子になっていたとしてもこのときに宇喜多家に戻されたとみられる[9]。 天正19年時点では存命だった長男はそれ以降に早世したために、次男の孫九郎が嫡男に立てられたとみられる[10]。 慶長2年(1597年)正月5日、孫九郎は秀家の嫡男・豊臣秀隆として正五位下に叙され、同年9月27日に侍従に任官、翌28日に従四位下に昇叙された[11]。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗戦し、父と共に薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された[要出典]。 慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流される[12]。米や料紙などの支援を行っていた実祖母・芳春院の書状によれば、八丈島での孫九郎は精神に異常をきたしてしまったという[13]。 その後、百姓になり[要出典]、代官・奥山忠久(縫殿助)の娘(『八丈実記』)または三根村彦七娘(『宇喜多中納言家系』)を娶り、太郎助秀正、くすの一男一女を儲けたという[14]。 慶安元年(1648年)8月18日、父に先立って食傷のため死去、享年58[14]。戒名は秀光院殿雲照居士[5]。 脚注
参考文献
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