宇喜多秀継
宇喜多 秀継(うきた ひでつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての人物。父は宇喜多秀家、母は豪姫(前田利家の娘、豊臣秀吉の養女)、同母兄に秀隆。通称は小平次[1]。 生涯慶長2年(1597年)、備前岡山の大名・宇喜多秀家と豪姫の三男として生まれる[1]。『義演准后日記』同年11月21日条に「備前中納言息一歳不例」として同年に生まれた男子の病気の記述があり、翌12月10日条に「御八」という名前が見える[1]。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの宇喜多氏の敗戦後、薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された[要出典]。慶長11年(1606年)4月、父の流罪に従い八丈島に流される[2]。 八丈島では医師をしていたという[3]。明暦3年(1657年)2月5日または3月5日に60歳で死去したとされるが、生年から実際の享年は数え61歳とみられる[3]。戒名は秀源院殿浄雲居士[1]。 秀継には3児あり、長男・秀律(半助)[4]、長女・マツ[5]、次男・藤松[6]。 その後、秀継の子孫は庶流のため浮田姓を称し、宇喜多7家の中、浮田半平家・浮田半六家・浮田半七家の3家を興す。明治の恩赦により、宇喜多7家は八丈島を離れたが、のちに浮田半七家は帰島し、その子孫は東京都八丈支庁八丈町大賀郷に在住している。なお、秀継から11代後の末裔である浮田秀典(半平)は、八重根に港を開いた事績を讃えられ、浮田半平功労碑を建てられている[7]。 脚注参考文献
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