宇喜多秀継

 
宇喜多秀継 / 浮田秀継
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 慶長2年(1597年
死没 明暦3年3月5日1657年4月18日
または同年2月5日3月19日
改名 御八(幼名)、秀継
別名 通称:小平次(小平治)
戒名 秀源院殿浄雲居士
墓所 東京都八丈町宗福寺および長楽寺が菩提所、大賀郷の稲場墓地に墓石
氏族 宇喜多氏(浮田氏)
父母 父:宇喜多秀家、母:豪姫
兄弟 秀高秀継
秀律(半助)、マツ、藤松
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宇喜多 秀継(うきた ひでつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての人物。父は宇喜多秀家、母は豪姫前田利家の娘、豊臣秀吉の養女)、同母兄に秀隆。通称は小平次[1]

生涯

慶長2年(1597年)、備前岡山大名・宇喜多秀家と豪姫の三男として生まれる[1]。『義演准后日記』同年11月21日条に「備前中納言息一歳不例」として同年に生まれた男子の病気の記述があり、翌12月10日条に「御八」という名前が見える[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの宇喜多氏の敗戦後、薩摩島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された[要出典]。慶長11年(1606年)4月、父の流罪に従い八丈島に流される[2]

八丈島では医師をしていたという[3]明暦3年(1657年)2月5日または3月5日に60歳で死去したとされるが、生年から実際の享年は数え61歳とみられる[3]。戒名は秀源院殿浄雲居士[1]

秀継には3児あり、長男・秀律(半助)[4]、長女・マツ[5]、次男・藤松[6]

その後、秀継の子孫は庶流のため浮田姓を称し、宇喜多7家の中、浮田半平家・浮田半六家・浮田半七家の3家を興す。明治の恩赦により、宇喜多7家は八丈島を離れたが、のちに浮田半七家は帰島し、その子孫は東京都八丈支庁八丈町大賀郷に在住している。なお、秀継から11代後の末裔である浮田秀典(半平)は、八重根に港を開いた事績を讃えられ、浮田半平功労碑を建てられている[7]

脚注

  1. ^ a b c d 大西 2019, pp. 181–183.
  2. ^ 大西 2019, p. 237.
  3. ^ a b 大西 2019, p. 242.
  4. ^ 寛永15年(1638年)生まれ。4児あり。
  5. ^ 寛永17年(1640年)生まれ。6児あり。
  6. ^ 正保3年(1646年)生まれ。4児あり。
  7. ^ 八丈島観光協会・浮田半平功労碑(宇喜多秀家の子孫)[リンク切れ]

参考文献

  • 大西, 泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』株式会社KADOKAWA〈角川新書〉、2019年9月10日。ISBN 978-4-04-082287-7 

関連項目