妙満寺
妙満寺(みょうまんじ)は、京都市左京区岩倉にある顕本法華宗の総本山の寺院。山号は妙塔山。本尊は三宝尊。安珍・清姫伝説ゆかりの鐘があることで知られる。 概要妙満寺を創建した日什は、もと天台宗の学頭で名を玄妙と称した。68歳の時に上洛して後円融天皇へ上奏し「二位僧都」の位と「洛中弘法の綸旨」を賜った。室町時代、日什は天王寺屋通妙の外護を受けて妙満寺を建立した。安土桃山時代から江戸時代にかけて争乱などにより移転と再建を繰り返した。近年、門前に3,000株のツツジが植えられて、花の寺として親しまれている。塔頭が4院ある(成就院、正行院、法光院、大慈院)。 現住は307世大川日仰貫首(京都市寂光寺より晋山)。 歴史永徳3年(1383年)、日什が天王寺屋通妙の外護により、六条坊門室町(現・京都市下京区)[1]に法華堂を建立したのが当寺の草創とされる。康応元年(1389年)に伽藍を整備し、妙満寺と号した。 応永2年(1395年)に火災により伽藍を焼失し、綾小路東洞院(現・京都市下京区)に移転、再建された。応仁元年(1467年)、応仁の乱による焼失後は、四条堀川(現・京都市下京区)に移転した[2]。 天文5年(1536年)には天文法華の乱により伽藍を焼失し、妙満寺は堺に避難する。天文11年(1542年)、後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、寺は四条堀川の旧地に再建されるが、天正11年(1583年)、羽柴秀吉の命により、寺町二条(現・京都市上京区榎木町)に再移転する[3]。 寛永5年(1628年)の火災、宝永5年(1708年)の宝永の大火、天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変によって伽藍を焼失しているが、その都度再建されている。1871年(明治4年)、上知令により寺領が縮小された。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)には強制疎開により塔頭4院の寺領、建物が失われている[4]。 寺が寺町二条から現在の岩倉に移転したのは1968年(昭和43年)である。旧寺地である上京区寺町通二条下る榎木町は現在京都市役所分庁舎や京都市消防局の敷地となっており、付近には妙満寺前町の町名が残っている。1973年(昭和48年)には仏舎利大塔が建立されている。 大納言・外山光顕を祖とする外山家の菩提寺。豊田佐吉以来、豊田家一門の菩提寺ともなっている。 境内
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