太子奐
太子奐(たいし かん、生没年不詳)は、中国戦国時代の韓の宣恵王の太子。 生涯紀元前322年、韓の太子奐は魏の太子嗣(後の魏の襄王)と共に秦の恵文王に朝見した。同年、張儀が魏の宰相となった。 紀元前318年、中山国の楽池が秦の宰相となった。同年、魏・韓・趙・燕・楚の5カ国合従軍が秦の函谷関に、魏の相国の公孫衍の呼びかけに呼応した義渠が李帛(現在の甘粛省天水市の東)に攻め込んだ。秦は樗里疾を指揮官として派遣し、足並の揃わぬ合従軍は修魚(現在の河南省新郷市原陽県の南西)の地で樗里疾率いる秦軍に敗れ、韓将の申差は捕虜となり趙の公子渇と太子奐も敗走し、合従軍は8万2千の兵が首を討たれた[1](函谷関の戦い)。 紀元前314年、秦に攻められた韓は太子倉(後の韓の襄王)を秦に人質として差し出し和睦した。太子奐は先の函谷関の戦いで戦死したかなどして、この年までに廃位されていたことが分かっている。 脚注
参考文献 |