襄王 (魏)
襄王(じょうおう)は、中国戦国時代の魏の君主(在位:紀元前319年 - 紀元前296年)。姓は姫、氏は魏、諱は嗣。恵王の子。 生涯恵王後元16年(紀元前319年)、恵王が死去すると、後を嗣いで魏王となった。 襄王元年(紀元前318年)、楚・斉・趙・韓・燕の軍とともに秦を攻撃したが、函谷関で敗れて撤退した。 襄王2年(紀元前317年)、斉軍に観津を攻め破られた。襄王5年(紀元前314年)、秦の樗里疾に曲沃を奪われ、魏の公孫衍は岸門に敗走した。襄王6年(紀元前313年)、秦の求めに応じて公子政を魏の太子に立てた。襄王は秦の恵文王と臨晋で会合した。襄王7年(紀元前312年)、斉を攻撃した。秦とともに燕を攻撃した。 襄王8年(紀元前311年)、魏の将軍の翟章が衛を攻撃した。衛を擁護した成陵君を免官した。 襄王9年(紀元前310年)、襄王は秦の武王と臨晋で会合した。秦の張儀や魏章が魏に帰順してきた。張儀を宰相としたが、翌年に死去した。 襄王11年(紀元前308年)、襄王は秦の武王と応で会合した。襄王12年(紀元前307年)、秦の公孫緩が侵入し、皮氏を包囲した。将軍の翟章が救援の軍を発して、皮氏の包囲を破った。襄王14年(紀元前305年)、秦が武王后を魏に帰国させた。襄王16年(紀元前303年)、秦の攻撃により蒲阪・陽晋・封陵を失陥した。襄王17年(紀元前302年)、襄王は秦の武王と臨晋で会合した。秦が蒲阪の地を返還してきた。襄王18年(紀元前301年)、秦とともに楚を攻撃した。襄王21年(紀元前298年)、斉や韓とともに秦軍を函谷関で撃破した。 襄王23年(紀元前296年)、秦が河外の地と封陵を返還してきたため、講和した。この年のうちに襄王は死去した。在位23年。 西晋の咸寧5年(279年[1])、汲郡にあった王墓が盗掘され、副葬されていた数種の竹簡が見つかった。この竹簡は汲冢書と総称されている。 参考文献
脚注
|