天野之弥
天野 之弥(あまの ゆきや、1947年〈昭和22年〉5月9日 - 2019年〈令和元年〉7月18日)は、日本の外交官。位階は従三位。勲等は勲一等。 在ウィーン国際機関日本政府代表部大使、国際原子力機関事務局長(第5代)等を歴任した。 人物・来歴生い立ち等栄光学園中学校・高等学校を経て、1966年東京大学理科二類に入学し理学部生物化学科への進学を予定していたが、1968年に東京大学文科一類へ再入学する[2]。1972年東京大学法学部卒業[2]。 外交官として1972年に外務省入省。フランス語研修(在フランス)、在ベルギー大使館、在米国大使館、国際連合局科学課長、マルセイユ総領事、総合外交政策局軍縮不拡散・科学部長などを経て、2005年から在ウィーン国際機関日本政府代表部大使を務めた。同年、国際原子力機関 (IAEA) 理事会議長に選出され、2009年には日本人として初めてIAEA事務局長に就任した。 IAEA事務局長として2008年9月26日、日本国政府から国際原子力機関 (IAEA) の次期事務局長選挙に擁立される[3]。この選挙は2009年11月末に退任した[4]エルバラダイ事務局長の後任を選ぶ選挙で、最終的に日本の天野と南アフリカのアブドゥル・ミンティIAEA担当大使が立候補した[4][5]。 天野は「日本が唯一の被爆国であり、原子力を平和利用してきたこと[6]」や「核兵器不拡散への決意[6]」などを訴え欧米主要国の支持を得ているに対し[4]、ミンティは「南アフリカが核兵器を所有後放棄した唯一の国であること[7]」や「発展途上国への原子力の必要性[6]」を訴えることで発展途上国を中心に支持を得ている[4]。 3月26日、計3回の投票が行われ、その全てで天野が優勢だったが、両者とも特別理事会35カ国の3分の2以上(23カ国)の信任は得られなかった[8]。後日27日にもう一度投票が行われたが、結果は変わらなかった[9][10]。この事態の責任を取るため、外務省の総合外交政策局軍縮不拡散・科学部部長の佐野利男と大臣官房総括審議官の松富重夫が頭を剃り丸坊主となった[11]。 2009年7月2日に行われた第2回目の投票には天野の他に前回も出馬したアブドゥル・ミンティ、経済協力開発機構 (OECD) 原子力機関のエチャバリ事務局長が立候補した。最終的に前回と同じく天野とミンティが残り、天野は23票、ミンティは12票を獲得。続く信任投票でも必要な3分の2以上の23票を獲得し、当選が決まった[12][13]。その後、9月の年次総会で正式承認され、12月に就任した。任期は4年。 2013年3月6日、IAEA理事会で再任が決定する[14]。その後、9月の年次総会で正式承認され[15]、12月より2期目の任期が始まる。任期は4年。 2017年3月8日、IAEA理事会で再任が決定する[16]。その後、9月の年次総会で正式承認され、12月より3期目の任期が始まる[17]。任期は4年。 2019年7月17日、健康問題により翌年3月までに辞職する意向が報道されたが[18]、IAEAは天野が7月18日に死去した旨を7月22日に発表した。72歳没[19]。政府は没後、従三位に叙するとともに、瑞宝大綬章を追贈した[20][21][22]。 IAEAは2020年6月5日、ウィーン郊外にある原子力応用研究所内で「ユキヤ・アマノ研究所」の開所式を開いた[23]。 同期入省
政策・発言2010年12月、内部告発サイト「ウィキリークス」から公開された情報として、天野は米国のIAEA担当大使に対し、「高官人事からイランの核兵器開発疑惑まで、あらゆる戦略的な重要決定について、断固として米側に立つ」と表明したとされる[24][25]。 2011年3月24日、福島第一原子力発電所事故に関する各国の「脱原発」への路線変更に対し、「原発が安定したクリーンなエネルギーだという事実は変わらない」と発言した[26]。 家族・親族2011年より2013年までジュネーブ軍縮会議日本政府代表部特命全権大使を務めた天野万利は、之弥の実弟にあたる。 経歴
脚注
関連項目外部リンク
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