大野延太郎
大野延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日〈文久3年2月27日〉 - 1938年〈昭和13年〉3月22日)、雅号・大野雲外(おおの うんがい)は、明治時代から昭和時代初期に活動した日本の画工・人類学者・考古学者。東京帝国大学に所属して遺跡から出土した遺物の図版製作や、人類学・考古学に関する学術書籍・雑誌の挿絵製作などをしつつ、調査・研究活動も行った。 人物旧越前国の福井県坂井郡丸岡町(現・坂井市)出身。1880年(明治13年)に東京の本多錦吉郎の塾に入り図画を学ぶ。 1886年(明治19年)、金港堂編集所に雇聘される。1891年(明治24年)の東京英語学校の図画教授を経て、1892年(明治25年)に東京帝国大学人類学教室の図画嘱託(画工)となる[1]。 画工として土器や石器などの写生に従事する内に学術研究に対する意欲にも目覚め、1902年(明治35年)に同人類学教室の助手となった。坪井正五郎らが主宰する日本人類学会の『人類学雑誌』上に土偶や石器、装身具等の型式分類に関する論文を発表した[2]。岩版(岩盤)についての本格的な分析・研究を学史上の最初期に行い、土版と岩版は土偶の退化形態であると位置づけた[3]。 著作単著
共著共編著作集脚注参考文献
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