大谷光明
大谷 光明(おおたに こうみょう、1885年(明治18年)4月26日 - 1961年(昭和36年)4月3日)は、京都府出身の僧侶、ゴルファー、ゴルフ場設計者。天狗倶楽部メンバー。法名は「淨如」。 人物大谷光明は、1885年(明治18年)4月16日、京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町(西本願寺)に、浄土真宗本願寺派21世法主・大谷光尊(法名・明如上人)の三男として生まれる[1]。1899年(明治32年)、法主の後継者となったが、1914年(大正3年)引退した[2]。1906年(明治39年) - 1909年(明治42年)、本願寺派管長事務代理を務めた[2]。1907年(明治40年)、文学寮卒業、英国に留学(3年間)し、留学中にゴルフに没頭した[1]。その時に覚えたゴルフが、草創期だった日本のゴルフ界に大きな影響を与えた[1]。 帰国後、1914年(大正3年)、「東京ゴルフ倶楽部」会員となる[2]。1918年(大正7年)、「東京ゴルフ倶楽部・駒沢コース」で開催された「第12回 日本アマチュアゴルフ選手権」3位、1922年(大正11年)、「第16回 日本アマチュアゴルフ選手権」に優勝を飾っている[1][3]。長身から放たれるロングドライブを武器にする、トップアマであった[1][3]。1922年(大正11年)4月19日、英国のプリンス・オブ・ウェールズ(エドワード8世、後のウィンザー公)が来日した際、「東京ゴルフ倶楽部・駒沢コース」での親善試合では、皇太子(後の昭和天皇)とペアを組んだ[1][3]。 一方では、東京ゴルフ倶楽部の代表として、1924年(大正13年)、「日本ゴルフ協会」(JGA・ジャパン・ゴルフ・アソシエーション)創設に尽力した[1]。その後、1925年(大正14年)、再度英国に赴き、コース設計の技法を学び、日本ゴルフ協会に事業案を提出し、「日本アマ」、「日本オープン」などの競技開催を実現した[1]。1925年(大正14年)、英国から帰国後、真宗保摂会会長、浄土真宗本願寺派審判院長、日本教学研究所長を歴任[2]。1927年(昭和2年)「第1回 日本オープン」の開催を果たしている[1]。英語の原書を研究し、邦訳や出版するなど、ゴルフルールの基礎を作った[1]。1939年(昭和14年) - 1941年(昭和16年)、本願寺派管長事務代理を務めた[2]。 主な設計コース
エピソード
脚註
著書
関連文献
|