大蔵氏 (豊後国)
大蔵氏(おおくらし)は、豊後国日田郡、現在の大分県日田市の慈眼山周辺を拠点に日田郡の一部を支配していた地方の土豪。鎌倉幕府、室町幕府政権下の御家人。東漢氏大蔵氏族の庶家(分家)を称する。「豊後大蔵氏」とも呼ばれ、地名をとって「日田氏」とも称した。諱の通字は「永」。大友氏系では「親」をあてる。家紋は洲浜紋を使用した。 本項は大蔵氏族日田氏断絶後の中原姓大友氏流の日田氏(大友日田氏)についても併記する。
概要平安時代後期、11世紀終わりから1432年(永享4年)まで、400年弱の間、永弘の代の835年(承和2年)から16代永包の代の1444年(嘉吉4年)までの590年余りの間の日田地方を支配した。 豊後の大蔵氏は古代に九州の日田地方を支配していた日下部氏に代わって日田郡司になった。また擬任郡司ともされる。位は散位であって、検校を称する。 その後、日田での地位を確立していった大蔵氏は、中央の貴族に従属して、勢力を確固なものとしていった。鎌倉時代には、源氏方に加勢したことで所領が安堵され、鎌倉幕府政権下の御家人に取り立てられた。室町時代には室町幕府近侍の御家人である奉公衆であった。文化面においても大蔵氏は、大原八幡宮や永興寺(ようこうじ)、岳林寺(がくりんじ)を造営し華やかな文化を形成していったが1444年(文安元年)、身内の家督争いによって16代で滅亡し大友氏より養子を迎えて大友氏系で日田氏を再興したが、その大友日田氏も6代で系譜が途絶える。 歴史豊後の大蔵氏は上記の庶流とされるも、現存する資料も少ないために出自は定かではない。そのため、系譜上もはっきりとしたことはわからず、承和年間に任期が満了した後も日田に土着した豊後国司・中井王の子孫説のほかに、日向高千穂神社の主祭神・三毛入野命(ミケイリノミコト)末裔説[2]や、大蔵氏の祖とする東漢姓の阿智使主(あちのおみ)の子孫の説などがある。 834年ごろに、中井王の子孫という豪族が日田に土着した記録があるも、その一方、宇佐を本拠としていた鬼蔵大夫永弘が日田に居付いて、大蔵日田氏となったという説もあり、渡来の秦氏の系統とされるものまであり、定かではない。 この日田氏は日田城および大蔵館(鷹城)、現在の慈眼山公園を拠点に栄華を極め1444年まで590余年まで保った。しかし、16代永包は家督を譲られるも、15代永秀(永英)の死後、1444年永秀に追放されていた永好(永秀の弟にあたる)が家臣たちに煽られ、その家臣今村左馬を使い、当主の永包を暗殺せしめ、その後を継いだ。しかし、その永好も反乱を起こした家臣により亡命先の美濃国で殺害され[3]、ついに大蔵日田氏は断絶した。 中原姓大友氏流日田氏から郡老支配その後、中原姓大友氏から永世(親満)を養子に迎え、16代大蔵永包の姉を妻として再興を果たす。大友氏流日田氏の始まりである。日田氏は大友氏の影響を受けるも大友氏本流の支配下にはなく室町幕府近侍の御家人という立場もあり独自性を保持したが、1548年(天文7年)にその大友氏流日田氏も断絶した。以降は、本家の大友義鑑が選出した旧豊後大蔵氏一族の郡老8名(財津氏、豊後坂本氏、豊後石松氏、高瀬氏、豊後羽野氏、豊後堤氏、豊後佐藤氏、世戸口氏)が奉行職として政治を執り行うことになった[4]。戦国末期、大友日田氏最後の当主日田親将の子日田親永は大友義統に仕えたが、文禄・慶長の役に従軍し朝鮮にて戦死した。 人物大蔵永弘『豊西記』では853年 - 910年(仁寿3年 - 延喜10年)まで永弘が日田郡司を勤め日田大蔵氏の始祖となったとしているが、二百数十歳生きたなどの逸話を残しているためその実在については詳らかでない。 大蔵永季大蔵永季(おおくらながすえ、1056年 - 1104年?)は、大蔵永興の嫡子とされるが何代目であるかは定かではなく、矢野貞一は『筑後国史』で『豊西記』は妄誕が多いとして豊後大蔵氏の初代とし、『豊後国日田郡司職次第』には大蔵姓65代とあり、『豊西記』では永弘を2代として永季を3代としている。豊後の大蔵氏の人物として伝説の域を出て歴史に登場する人物である。 本名を日田鬼大夫大蔵朝臣永季という。俗に「日田どん」とも呼ばれる。『後二条師通記』では「長季」という表記で登場する。ほか、『小右記』『中右記』『御堂関白記』に登場する。 相撲の名手であり、京で行なわれた「相撲節会」(すまいのせちえ)に出場した記録が残り、『豊後国日田郡司職次第』には、相撲節会に10回出場し無敗であったとある。昔話には出雲小冠者との取り組みが語られ、同様の伝説が『豊西記』に載る。大原八幡宮の大鳥居にある「大波羅野御屋新呂」の変額の書は、永季の相撲節会勝利祈念に大江匡房が書いたものであると同神社に伝わる[3]。永季を祀る日田神社は、相撲の神として角界の崇敬を受けている。 1104年(長治元年)京からの帰りの道中、風邪をひき大肥庄(現・日田市大肥町・大鶴町あたり)にて没したといわれる。 家紋日田氏の使用紋は「鬼洲浜」。永季が後三条天皇から賜与された紋と伝わる。異形図案に頭頂部が剣状のものがあるが、こちらは「剣洲浜」という。剣洲浜は財津氏など日田氏の庶家や末裔が使用している。ほか日田神社や大原八幡宮の社殿装飾に見ることができる。『日田記』には、本来の日田氏の家紋は図案は不明であるが「左三巴」(左三つ巴)とある[5]。
系譜歴代当主に関しても諸説があり、郷土資料の記述では名に違いがあるなどの不鮮明な部分がある。正しい系譜は不明であるため、以下は一部の郷土資料をもとにしたものである。 ※ 以下は参考に宇佐末裔説と中井王子孫説を系譜で表した。
※ 以下、数字は歴代当主を表す。
※ 『豊後国日田郡司職次第』での系譜は、大友日田氏の4代親賢から以降について6代親将の後ではなく、5代親久の子・親将(孫三郎)に続く。 系譜の参考文献は以下による。
脚注関連項目 |