大窪昌章
大窪 昌章(おおくぼ まさあき)は、江戸時代後期の尾張藩士、本草学者。名古屋の本草学研究会嘗百社の一員で、天保4年(1833年)水谷豊文の没後同社を支えた[3]。茶道も好み、茶器を自作した[1]。 経歴志村半兵衛吉昌の次男として生まれた[1]。文政4年(1821年)後半大窪光風の養子となり[2]、光風没後、文政7年(1824年)4月14日御目見して跡目を継ぎ、馬廻組、切米30俵となり、天保9年(1838年)9月12日大番組、切米50俵となった[4]。 天保12年(1841年)10月8日死去し[2]、天保13年(1842年)6月14日嫡子大窪安治[3]が跡目を継いだ[5]。 採薬行
作品
大東急記念文庫にも自筆本等が多数所蔵されている。 脚注参考文献
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