大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉1月10日[2])は、日本の医師。貴族院勅選議員。医学博士。
経歴
三河国宝飯郡当古村(現在の愛知県豊川市当古町)に神職・大林美濃の四男として生まれ、三河吉田藩の侍医・大沢玄竜の養子となった。東京の医学所で医学を学んだ後、1870年(明治3年)にドイツ留学を命じられ、ベルリン大学で学んだ。帰国後、東京医学校教授に就任したが、1878年(明治11年)に辞職して、自費で再びドイツに留学し、シュトラスブルク大学で医学博士の称号を得た。
1882年(明治15年)に帰国後、東京大学医学部教授となり、1886年(明治19年)には東京帝国大学医科大学教頭に就任した。1888年(明治21年)、帝国大学より医学博士の称号を受けた。1890年(明治23年)11月11日、医科大学長を兼任し[3]、1891年(明治24年)12月22日、貴族院議員に勅選された[4]。1915年(大正4年)に退職し[5]、名誉教授となった[6]。
家族
- 実父・大林三郎
- 養父・大沢玄龍
- 養子・大沢岳太郎(1863年生) - 実父は大橋見龍。妻はドイツ人のユリヤ・マイエル。
- 長女・ひさ(1884年生) - 広田精一の妻
- 二女・小松(1888年生) - 法学博士粟津清亮の妻
- 二男・慶二(1892年生)
- 四女・鶴(1895年生) - 松永安彦長男安衛の前妻
- 三男・三千三(1898年生)
栄典
- 位階
- 勲章
著書
- 『社会的衛生 体質改良論』開成館、1904年。
- 『生理学上より見たる婦人の本分』大倉書店、1908年。
- 『通俗結婚新説』大倉書店、1909年。
- 『通俗酒害新説』銀座会館、1910年。
- 『冷水浴と冷水摩擦』文星堂、1911年。
- 『日本衛生文庫:第1-6集』教育新潮研究会、1917-1918年。三宅秀と共編
脚注
- ^ 『官報』第12号、昭和2年1月14日。
- ^ 『官報』第2213号、明治23年11月13日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、4頁。
- ^ 『官報』第738号、大正4年1月20日。
- ^ 『官報』第763号、大正4年2月19日。
- ^ 『官報』第7165号「叙任及辞令」1907年5月21日。
- ^ 『官報』第765号「叙任及辞令」1915年2月22日。
- ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
- ^ 『官報』第720号「叙任及辞令」1914年12月24日。
参考文献
- 『立身致富信用公録 第13編』国鏡社、1903年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。