大島正泰
大島 正泰(おおしま まさやす、1919年(大正8年)9月20日[1] - 2012年(平成24年)6月15日[1])は、日本のピアニスト、音楽教育者。桐朋学園大学音楽学部名誉教授。 経歴台湾台北市[1][注釈 1]において、動物学者の父・大島正満[2]と、東京音楽学校卒の母・イマコ[3]の五男[2]として生まれる。 1940年(昭和15年)東京音楽学校予科を経て本科器楽科卒業[4]。1942年(昭和17年)同校研究科修了。田中規矩士、レオ・シロタ、井口基成に師事[4]。 1947年(昭和22年)フェリス女学院(当時の校名は「横浜山手女学院」と変えられていたが、1950年(昭和25年)に「フェリス女学院」に戻される)専門学校音楽科創設と共にピアノ講師となる。生徒はたったの7名であったが、当時の講師陣は、1941年(昭和16年)に着任していた三宅洋一郎のほか、新たに大島、作曲家の團伊玖磨、音楽評論家の寺西春雄、声楽家の藤井典明が名を連ねていた[5]。1951年(昭和26年)フェリス女学院短期大学音楽科設置[5]とともに専任助教授に就任。1955年(昭和30年)に専任教授就任[1]。 1953年(昭和28年)に桐朋学園高等学校音楽科兼任講師となる。1956年(昭和31年)に桐朋学園短期大学が創設される。1961年(昭和36年)桐朋学園大学音楽学部発足とともに同校のピアノ科専任教授に就任[1]。 1961年(昭和36年)フルブライト研究員としてワシントン大学、ジュリアード音楽院へ研修のため渡米[4]。 帰国後、桐朋学園大学音楽学部ピアノ科主任教授、及び大学音楽学部長を務める[1]。 演奏面では、独奏とともに、室内楽や歌曲の伴奏で高く評価されている[6]。1947年(昭和22年)から1953年(昭和28年)頃まで全国各地の木下保独唱会においてピアニストを務めた[1]。 音楽教育の面での貢献が著しく、幾多の名ピアニストを育てた[6]ことで知られる。門下生には、奈良場恒美[7]、田代純子[8]、山田敏裕[9]、古髙晋一[10]、井出よし江[11]、有森直樹[12]、日置寿美子[13]、河井忍[14]、高橋成太[15]、山本貴志[16]、諏訪まりか[17]、浅賀優子[18]、野村浩子[19]、三神奈理[20]、山根陽一[21]、早川恵美[22]、深川美奈[23]、岡田美和[24]、黒木由香[25]、鵜生川育実[26]、佐々木秋子[27]、土橋道子[28]、清水美左子[29]、渡辺眞知子[30]、小口希代子[31]、草間美也子[32]、菊池質子[33]、尾嶋和子[34]、吉野由美[35]、外川陽子[36]、村西則美[37]、安藤友侯[38]、白石隆生[39]、増山歌子[40]、平岩祥子[41]、河瀬純[42]、酒井稚左[43]、佐々木洋子[44]、香川正人[45]、余村聡二郎[46]、中川佳彦[47]、小池久美子[48]、押川珠里[49]、樋口五葉[50]、徳重博子[51]、吉田晴子[52]、飛永(佐藤)美保子[53]、練木繁夫[54]、志茂征彦[55]、津嶋啓一[55]、坂本雅美[56]、西原直子[57]、庭野佐知子[58]、松永三恵子[59]、越加奈恵[60]、草野政眞[61]、石田桃子[62]、白井和子[63]、深沢雅美[64]、渡辺浩子[65]、土屋律子[66]、畠千春[67]、岡部由美子[68]、小川芳子[69]、須永多惠子[70]、根本美江[71]、赤塚伸子[72]、鵜塚一子[73]、谷あや[74]、福原香織[75]などがいる。 ジェラルド・ムーア『歌手と伴奏者』等の翻訳や、バーナム、トンプソンのピアノ教則本の翻訳・監修も務めている[4]。 日本音楽コンクールの審査委員長を長く務め、また日本ピアノ教育連盟の設立に貢献している[1]。 2012年(平成24年)6月15日逝去。92歳没[1]。逝去時、桐朋学園大学音楽学部名誉教授[4]。 家族
翻訳・監修
主なディスコグラフィー
脚注・出典注釈
出典
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