大信寺 (高崎市)
歴史戦国時代後期、内藤昌月の開基である。昌月は武田信玄の家臣で、西上野侵攻後に武田領となった箕輪城の城代であった。その城下に寺を創建したのが当寺の起源である[1]。 その後、箕輪城の城主だった井伊直政が居城を高崎城に移転した際に、当寺も高崎に移転した[1]。 当寺は江戸幕府第3代将軍徳川家光の弟徳川忠長の墓があることで知られている。忠長は不行跡のかどで改易・逼塞が命じられ、高崎藩の藩主安藤重長に預けられた。そして1633年(寛永10年)、幕命により切腹した。享年28[2]。 切腹後、忠長の遺体は当寺に葬られたが、罪人のため墓石を建てることは許されず、四十三回忌にあたる1675年(延宝3年)にようやく墓石が建てられた。それでも玉垣で隔離され、鎖が巻かれるなど、完全に名誉回復されたわけでは無かった[2]。 当寺には、忠長ゆかりの品々が残されている[2]。これらの品々と墓は高崎市の史跡に指定されている[3]。 文化財交通アクセス
脚注参考文献
外部リンク |