大井 (南知多町)
地理知多半島の南端部[1]、南知多町の東部に位置する[2]。東は知多湾に面しており、南は片名、南西は豊浜、西は豊丘に接している[2]。 大井漁港の周辺に集落が形成されている[2]。農業と漁業に従事する者が多く、漁業では海苔の養殖業も行われている[2]。海岸沿いを国道247号が通り、内陸部を南知多道路(愛知県道7号半田南知多公園線)が通っている[2]。
交通
人口の変遷国勢調査による人口および世帯数の推移。
歴史中世以前縄文時代早期の天神山遺跡と塩屋遺跡、縄文時代後期の長谷遺跡がある[1][3]。天神山遺跡と塩屋遺跡からは各時期の土器が数百個以上出土しており、天神山遺跡からは土偶も出土している[4]。 奈良時代には大井の海岸で製塩が行われており、大井川の西岸には字塩屋という地名が残る[3]。 平安時代には大井から弘法大師が上陸して知多半島を巡錫したとする伝承があり、上陸地点の聖崎という名はこの際に付けられたとされる[5]。1921年(大正10年)には『知多郡新四国八十八ケ所名所古跡写真画帖』が発行されたが、表紙には聖崎の写真が掲載されている[5]。天禄年間(970年~973年)には伊勢神宮外宮から勧請して、現在の豊受神社にあたる社が創建された[3]。 近世江戸時代の大井村は尾張藩領であり、鳴海代官所の支配下にあった[1]。村高は寛文年間(1661年~1673年)の「寛文郷帳」によると692石余であり、「寛文覚書」によると戸数は75戸、人口は821、牛馬は54だった[1]。 寛政4年(1792年)から文政5年(1822年)にかけて編纂された「尾張徇行記」によると、大井村の漁家は約30戸、漁船は約32隻であり、藻魚、ボラ、コノシロ、タコなどを漁獲していた[1]。いりこやこのわたなどが特産品であり、いりこは伊勢に、このわたは名古屋などに販売していた[3][6]。大井ではこのわたの製造を株とみなす慣習があり、山本八郎右衛門家のみが株を有して代々に渡って尾張藩主の御用商人を務めた[7]。 村高は天保年間(1830年~1844年)の「天保郷帳」によると695石余、明治初期の「旧高旧領」によると864石余だった[1]。 近代幕末の黒船来航時、名古屋城への情報伝達のために狼煙を上げる大井烽火台が建設された[8][9][WEB 11]。師崎に黒船の見張り場があり、大井、布土、長尾、亀崎、緒川、大高の各烽火台で烽火をリレーさせる予定だったが、実際に使用されることなく明治維新を迎えた[8][9]。 江戸時代末期から明治初期に編纂された『尾張名所図会』には、大井村の特産品としてこのわたが描かれ、領主・将軍・朝廷に献上するとある[3]。1880年(明治13年)に学校の教科書として編纂された『尾張国知多郡地誌略』は大井湊を知多郡第一の良港であるとし、一方で辺鄙な立地であるため船の入港は少ないとしている[10]。 1876年(明治9年)には大井村と片名村が合併して旭村となったが[3]、1884年(明治17年)には再び片名村と別れて大井村となった[1]。1885年(明治18年)の戸数は366戸、人口は1667人だった[1]。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、(旧)大井村と片名村が合併して知多郡大井村が発足した[1]。大字大井と大字片名が編成されている[1]。 1893年(明治26年)には知多半島東岸の航路が開設され、大井も寄港地となった[5]。また、大井と幡豆郡一色町を結ぶ定期航路も開設された[5]。1906年(明治39年)7月1日には大井村と(旧)師崎町が合併し、改めて師崎町が発足した[1]。大字大井が編成されている[1]。 1941年(昭和16年)まで、大寒には東本願寺名古屋別院から大井の山本八郎右衛門家に対して、朝廷や徳川家に対してこのわたの献上が要請され、1石近くのこのわたがつづらに入れられて東本願寺名古屋別院に運ばれると、そこから東本願寺の手によって京都の東本願寺本山に運ばれた[7]。 現代1961年(昭和36年)6月1日、師崎町、内海町、豊浜町、篠島村、日間賀島村が合併して南知多町が発足した。1970年(昭和45年)の世帯数は556戸、人口は2456人だった[1]。 1989年(平成元年)の世帯数は587世帯、人口は2374人[2]。 経済漁業
大井漁港南は長谷崎と聖崎、北は鳶ケ崎に抱かれた湾に大井漁港がある[5]。冬季の季節風の影響を受けることもない天然の良港であり[5]、その性格を利用して避難港としても利用されてきた[WEB 12]。南知多町が管理する第2種漁港である[WEB 12]。 海苔養殖業が発展したことで小型漁船が増加したため、1966年度(昭和41年度)には係留施設や施設用地の整備に着手し、1987年度(昭和62年度)に完了した[WEB 12]。その後も防潮堤の整備などが行われている。大井漁港には漁船の他にプレジャーボートなどもあり、1998年度(平成10年度)には利用調整区域が指定されて両者のすみ分けがなされた[WEB 12]。 教育→詳細は「南知多町立大井小学校」を参照
1873年(明治6年)には視遠学校が創立され[12]、1887年(明治20年)に大井尋常小学校に改称、1892年(明治25年)に片名尋常小学校を分離した[WEB 13]。1900年(明治33年)には大井村立大井尋常高等小学校に改称し、1910年(明治43年)には片名尋常小学校を統合した上で師崎第一尋常高等小学校に改称した[WEB 13]。1947年(昭和22年)には師崎町立大井小学校に改称し、1961年(昭和36年)には南知多町立大井小学校に改称した[WEB 13]。1963年(昭和38年)には片名分校廃止した[WEB 13]。 1999年(平成11年)公開の映画『学校の怪談4』では校舎が全景セットとして使用された。2022年(令和4年)3月には南知多町立師崎小学校と統合されて閉校となり[WEB 14]、新たに南知多町立みさき小学校が開校した[WEB 15]。 施設
名所・旧跡
祭事・催事
脚注WEB
書籍
参考文献
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