壱岐市立田河小学校

壱岐市立田河小学校
地図北緯33度47分02秒 東経129度45分14秒 / 北緯33.783833度 東経129.753944度 / 33.783833; 129.753944座標: 北緯33度47分02秒 東経129度45分14秒 / 北緯33.783833度 東経129.753944度 / 33.783833; 129.753944
過去の名称 第五大学区第四中学区諸吉小学校
諸吉学区中下等諸吉小学校
諸吉学区中等諸吉小学校
尋常諸吉小学校
諸吉尋常小学校
田河尋常高等小学校
田河村立田河国民学校
田河村立田河小学校
田河町立田河小学校
芦辺町立田河小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 壱岐市
校訓 努力・真心・和
設立年月日 1874年(明治7年)8月
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード B142210002464 ウィキデータを編集
所在地 811-5315
長崎県壱岐市芦辺町諸吉二亦触1659番地
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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壱岐市立田河小学校(いきしりつたがわしょうがっこう, Iki City Tagawa Elementary School)は長崎県壱岐市にある公立小学校。略称は「田小」(たしょう)。

概要

歴史
1874年明治7年)に開校した「第五大学区第四中学区諸吉小学校」を前身とする。2014年平成26年)に創立140年を迎えた。
所在地
〒811-5315 長崎県壱岐市芦辺町諸吉二亦(もろよしふたまた)触1659番地
校名の「田河」は田畑が多く[1]、壱岐最長の幡鉾川をはじめとする河川が流れているということで「田川」から「田河」となったと言われている。現在住所に「田河」が入ることはないが、「田河町」「田河村」[2]という町村があった。
校訓
「努力・真心・和」
校章
芦辺町教育長の大川稔によるデザインで、「田河」地区にふさわしく、大地とと水をモチーフにした背景の上に、「小」の文字を配している。
校歌
作詞は松坂直美[3]、作曲は原賢一によるもの。歌詞は3番まであり、各番とも、「伸び行く田河小学校」で終わる。田河小学校の公式ウェブサイトで音楽を試聴することができる。
校区
芦辺町諸吉地区(大石触[4]除く)、深江地区。中学校区は壱岐市立芦辺中学校(旧・壱岐市立田河中学校)。

沿革

  • 1874年(明治7年)8月[5] - 諸吉本村触字熊本の旧庄屋に「第五大学区第四中学区諸吉小学校」が開校。
  • 1877年(明治10年)- 「諸吉学区公立中下等諸吉小学校」と改称。芦辺浦天徳寺に芦辺分校、八幡浦215のイに八幡分校を設置。
  • 1878年(明治11年)- 芦辺分校が中下等芦辺小学校(現・壱岐市立芦辺小学校)として独立。
  • 1883年(明治16年)
    • 「諸吉学区中等諸吉小学校」と改称。
    • 深江[6][7]・湯岳(ゆたけ)・鬼川(おにかわ)[8]に分校を設置。
    • 芦辺小学校を再び芦辺分校とし、八幡(やはた)分校を八幡分舎とする。
  • 1886年(明治19年)2月
    • 小学校令の改正に伴い、「尋常諸吉小学校」と改称。
    • 芦辺分校、深江分校を廃止。
    • 湯岳分校と鬼川分校が廃止・統合の上、諸吉学区公立中等中尾小学校(読みは「ちゅうのお」、現・壱岐市立那賀小学校)が新設される。
  • 1892年(明治25年)- 芦辺分教場を開設。
  • 1893年(明治26年)- 「諸吉尋常小学校」に改称。芦辺分教場が分離し、芦辺尋常小学校として独立。
  • 1908年(明治41年)4月 - 高等科を併置し、「田河尋常高等小学校[9]と改称。
  • 1909年(明治42年)- 学校医制度を創始。(校医嘱託の始まり)
  • 1913年大正2年)- 東部連合運動会を棚江原で実施。
  • 1914年(大正3年)- 第1回学芸会を開催。
  • 1916年(大正5年)- 田河農業補習学校を付設。
  • 1919年(大正8年)10月 - 運動場を拡張。
  • 1925年(大正14年)- 少年赤十字を結成。
  • 1927年昭和2年)- 図書館・医務室が完成。電話が開通。
  • 1935年(昭和10年)- 芦辺尋常小学校を再び芦辺分校とする。
  • 1939年(昭和14年)- 芦辺分校が再び芦辺尋常小学校として独立。
  • 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令により「田河村立田河国民学校」となる。
  • 1946年(昭和21年)- ニブロ米占領軍軍政部教育官が来校・視察。
  • 1947年(昭和22年)
    • 4月1日 - 学制改革(六・三制)により、「田河村立田河小学校」となる。田河村立田河中学校を併設。
    • 11月3日 - 町制施行により、「田河町立田河小学校」と改称。
  • 1948年(昭和23年)- PTAが結成。
  • 1949年(昭和24年)12月 - 田河中学校の校舎が別の場所に新築され移転したため、併設を解消。
  • 1954年(昭和29年)- JRCを結成。
  • 1955年(昭和30年)4月 - 町村合併[2]により、「芦辺町立田河小学校」と改称。八幡分校が芦辺町立八幡小学校として独立。
  • 1956年(昭和31年)- 田河小学校PTA文化部事業として一日保育園を実施。
  • 1957年(昭和32年)- 隔日幼児園として、深江・諸吉の2組に分け、二亦公民館を使用し開園(田河幼稚園の前身となる)。
  • 1959年(昭和34年)8月 - 講堂(へき地集会所)[10]が完成。
  • 1962年(昭和37年)12月 - 芦辺町立田河幼稚園(現・壱岐市立田河幼稚園)を設置。
  • 1963年(昭和38年)
    • この年 - 観察池を設置。
    • 7月 - 校歌を選定。校章を制定。 
    • 9月[11] - 粉乳(ミルク)給食を開始。
  • 1966年(昭和41年)- 鉄筋2階建て校舎が完成。(現在の旧校舎・特別教室棟)
  • 1968年(昭和43年)- 特殊学級(現・特別支援学級)を開設。
  • 1970年(昭和45年)4月 - 牛乳給食となる。
  • 1972年(昭和47年)7月 - 簡易プール(20m×15m)が完成。
  • 1974年(昭和49年)9月 - 創立100周年記念式典を挙行。記念事業を実施。
  • 1978年(昭和53年)3月 - 校舎前県道幅員拡張に伴い、運動場ブロック塀工事と削岩工事を実施。
  • 1979年(昭和54年)10月 - 給食室を改造。
  • 1980年(昭和55年)4月 - 完全給食を開始。
  • 1983年(昭和58年)
    • 3月 - 校舎改築用地造成が完了。
    • 8月 - 新校舎建設に着工。
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月 - 新校舎(現校舎)が完成。幼稚園舎も新築された。
    • 6月 - 庭園を造成。
  • 1985年(昭和60年)8月 - 体育館敷地を造成。学校・学級園を造成。運動場を整備(階段・側溝工事)。諸旗掲揚ポールを設置。
  • 1986年(昭和61年)3月 - 体育館が完成。
  • 1987年(昭和62年)11月 - 校門を設置。
  • 1990年平成2年)2月 - 新給食室が完成。(以前は旧校舎に近かったが、新校舎の近くに移設された。)
  • 1992年(平成4年)3月 - プール更衣室を改築。
  • 1994年(平成6年)8月 - 農具倉庫を新設。異常渇水のためにプールを閉鎖。
  • 1998年(平成10年)10月 - パソコン室を設置。
  • 1999年(平成11年)
    • 3月 - 太陽電池街灯を設置。
    • 9月 - 長崎県教育長(大村道夫)が視察で来校。
    • 10月 - 図書室に寄贈による大蔵元[12]文庫を創設。
  • 2000年(平成12年)
  • 2001年(平成13年)
  • 2002年(平成14年)
    • 1月 - 芦辺町子供議会に参加。
    • 2月 - 水洗トイレ工事が完了。
  • 2003年(平成15年)8月 - 一輪車倉庫が完成。
  • 2004年(平成16年)
    • 3月 - 市町村合併で壱岐市が誕生したことにより、「壱岐市立田河小学校」(現在名)と改称。
    • 7月 - 「長崎っ子の心を見つめる」教育週間が開始。
  • 2005年(平成17年)2月 - ホームページを開設。
  • 2006年(平成18年)6月 - 校内LAN敷設工事を実施。
  • 2008年(平成20年)3月 - 壱岐市地域イントラネット基盤施設整備工事を実施。
  • 2011年(平成23年)
    • 8月 - 旧校舎外壁塗装工事を実施し、旧校舎を「特別教室棟」と改称。
    • 9月 - 壱岐市学校給食センターが勝本町亀石地区に完成したことにより、旧芦辺町地区の各校独自調理方式から、センターからの配送方式に変更。

アクセス

最寄りのバス停
  • 壱岐交通
    • 「田河校前」バス停下車後すぐ。
      • 芦辺港方面からは「郷ノ浦行き(直行)」または、「印通寺経由郷ノ浦行き」のバスに乗車。
      • 印通寺港方面からは「芦辺行き」のバスに乗車。
      • 壱岐空港方面からは「郷ノ浦行き」のバスに乗車し、「印通寺入口」バス停で下車後、反対側の乗り場から「芦辺行き」のバスに乗車。
      • 郷ノ浦港方面からは「郷ノ浦行き」のバスに乗車し、「本町」バス停で下車後、反対側の乗り場から「芦辺行き(直行)」のバスに乗車。
最寄りの県道
  • 長崎県道23号勝本石田線長崎県道173号郷ノ浦芦辺線が合流する地点にある。
    • 芦辺漁港方面からは、長崎県道23号勝本石田線を南下。
    • 印通寺港・壱岐空港方面からは長崎県道23号勝本石田線を北上。
    • 郷ノ浦港方面からは長崎県道173号郷ノ浦芦辺線を北上。

周辺

脚注

  1. ^ 諫早市諫早平野に次ぎ、長崎県第2位の広さの「深江田原(ふかえたばる)平野」がある。
  2. ^ a b 1878年(明治11年)に「諸吉村」と「深江村」が合併して「田河村」に、1947年(昭和22年)に町制施行で「田河町」となった。1955年(昭和30年)に「那賀村」と合併し、「芦辺町」が誕生。翌年1956年(昭和31年)に「箱崎村」を編入し、現在の芦辺地区ができた。
  3. ^ まつさかなおみ。男性。1910年(明治43年)に田河校区の深江鶴亀(つるき)触で誕生。田河尋常高等小学校を卒業後、旧制・長崎県立壱岐中学校に進学する。壱岐中学校卒業後に上京し、作詞活動を開始。1922年(昭和7年)に「山のあけくれ」・「時雨する頃」(作曲は古関裕而)のレコードでデビュー。日本詩人連盟会長、日本訳詩家協会理事長、日本音楽著作家組合副委員長、日本音楽著作権協会評議員、東京雪州会(壱岐人会)会長等を歴任。1991年(平成3年)には勲三等に叙せられた。2002年(平成14年)に逝去。壱岐市立芦辺小学校壱岐市立三島小学校壱岐市立沼津小学校、旧壱岐市立田河中学校、旧壱岐市立那賀中学校等の校歌の作詞も行っている。
  4. ^ 大石触は壱岐市立芦辺小学校の校区。
  5. ^ 「長崎縣教育史 上巻」 (1942年(昭和17年)12月1日発行、長崎縣教育会)には9月28日とある。
  6. ^ 現在の深江南触。「深江越」バス停近く。深江小学校(単独校)として独立した時期もあった。(「芦辺町史」より)
  7. ^ 「長崎縣教育史 上巻」 (1942年(昭和17年)12月1日発行、長崎縣教育会)には深江小学校の開校が1875年(明治8年)12月とある。
  8. ^ 現在の湯岳射手吉触。壱岐交通のバス停の名前に「鬼川」がある。
  9. ^ 1884年(明治17年)に諸吉小学校と深江小学校が統合され、田河小学校になったとも言われている。
  10. ^ 現在のプールのそばにあったが、取り壊されて駐車場になっている。
  11. ^ 「芦辺町史」(1978年(昭和53年)出版、芦辺町史編集委員会)には1964年(昭和39年)と記されている。
  12. ^ 深江地区で唯一の医院「大蔵医院」の院長で、田河小学校の校医を代々務めてきた。現在は閉鎖されている。

参考文献

関連

外部リンク