増田町立西成瀬小学校
増田町立西成瀬小学校(ますだちょうりつ にしなるせしょうがっこう)は、秋田県横手市増田町荻袋にかつて存在した公立小学校。通称「西小(にししょう)」[1]。 概要西成瀬小学校は、1883年(明治16年)4月7日に西成瀬村にて開校した「荻袋安養寺小学校」を前身とする学校であるが[2]、2002年(平成14年)に増田小学校へと統合され、閉校した[3]。 1896年に赴任した遠藤熊吉は、1899年頃より標準語教育に力を入れ、学校が所在した旧西成瀬村は「標準語村」とも呼ばれた[4][1]。 閉校後は「西成瀬地域センター(西成瀬公民館)」として公民館機能をもつ施設となり、2017年(平成29年)には地域センターから地区交流センターへと名を変えた[5]。2023年(令和5年)4月1日からは施設の名前も西成瀬公民館から西成瀬地区交流センターへと改称した[6]。 歴史略歴西成瀬小学校の前身となるのは、1883年4月7日に開校した「荻袋安養寺小学校」であり、雄勝郡荻袋村・熊淵村・狙半内村が連合して安養寺(地名)の民家を借用して開校した[7]。狙半内村については中村に小栗山分校を、上畑に上畑分教場を設置して通学不便に対応した[8][9]。 1884年4月、吉野村・湯野沢村は田子内村・岩井川村・椿川村の5村で連合して湯野沢村にて「田子内簡易小学校湯野沢分教室」を開校した[8]。1885年に吉野村・湯野沢村は、学制改革により荻袋村・熊淵村・狙半内村の連合に加入し、荻袋安養寺小の学区となった[8]。1887年に荻袋安養寺小は現在地へ移転し、6月に「荻袋簡易小学校」へと改称[10]。1889年4月1日には、町村制の施行により荻袋村・熊淵村・狙半内村・吉野村・湯野沢村が合併し西成瀬村が発足、1892年に「西成瀬尋常小学校」と改称した[1][10]。 1915年、吉乃鉱山にて熊ノ沢鉱床が発見されたことにより、鉱山労働者が全国から流入[10][11]。それに伴って児童数も急増(1916年から1917年の1年間で273人増加、全校で758人が在籍[9]。)し、児童の収容ができなくなったため、鉱山施設の一部を使用して分教場を開設[11]。校舎の増築は1917年12月20日に竣工し[10]、分教場は廃止された[11]。 1918年に「西成瀬尋常高等小学校」と改称。1923年には小栗山分教場が独立し、小栗山尋常小学校として発足、また同時に上畑分教場が小栗山小学校の分教場となった[12]。小栗山小学校は1982年に上畑小学校と統合して増田東小学校へと統合された[13]。 第二次世界大戦が勃発し、国民学校令が施行された1941年には「西成瀬国民学校」へ、終戦後の学校教育法の施行では「西成瀬村立西成瀬小学校」と改称し、西成瀬村立西成瀬中学校を併設した[9][1]。1955年には町村合併により「増田町立西成瀬小学校」と改称した[9][1]。 湯野沢分校は1962年11月20日に新校舎が竣工、1984年に閉校した[13]。西成瀬小の新校舎は1990年に竣工し、この校舎が閉校まで使用されることとなった[13]。 2002年4月1日に増田小学校・亀田小学校・増田東小学校と統合し、新生「増田小学校」が発足、亀田小学校は閉校した[3]。 年表以下、注釈の無い項目は『増田町史(1997年)』の情報によるもの[14]。校名の改称については地区交流センター運営協議会報によるもの[1]。
校歌
脚注
参考文献
関連項目
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