塚本善五郎
塚本 善五郎(つかもと ぜんごろう、明治2年10月16日(1869年11月19日)[1] - 明治37年(1904年)5月15日)は、日本の海軍軍人。海軍大学校を首席卒業し、日露戦争初期に戦死。最終階級は海軍少佐。正六位勲四等功四級。娘の文は芥川龍之介に嫁ぎ、善五郎にとっては孫にあたる芥川比呂志(俳優)、多加志(ビルマで戦死)、也寸志(作曲家)を産んでいる[2]。家紋は「丸に松皮菱」。 概要海軍兵学校17期。席次は入校時53名中6番。卒業時88名中6番。同期生に秋山真之 、森山慶三郎、山路一善らがいる。1892年(明治25年)5月、少尉任官。日清戦争期は「高雄」航海士であった[3]。1897年(明治30年)、甲種作業答案として作成した「遠征艦隊編成法」が成績優秀と認められる[4]。1900年(明治33年)海軍大学校将校科乙種2期を優等卒業[5]。専攻は砲術であった。次いで海大将校科甲種3期に進み首席で卒業した。 →詳細は「海軍大学校卒業生一覧 § 将校科甲種3期」を参照 谷口尚真、百武三郎が同期である。日露戦争に第一艦隊第一戦隊の先任参謀として出征。同僚の後任参謀は斎藤七五郎であった。1904年5月15日午前9時55分、旅順港外閉鎖に従事中の戦艦「初瀬」が露海軍の敷設した機雷に触雷。午前11時38分、後部砲塔下付近に再び触雷し「初瀬」は沈没。塚本ら496名が戦死した。 遺児・塚本文が海軍機関学校教官・芥川龍之介に嫁いだのは、塚本の死後14年後のことであった。 栄典・授章・授賞
脚注出典
参考文献
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