土佐 光文(とさ みつぶみ/あや、文化9年3月25日(1812年5月6日) - 明治12年(1879年11月9日)は、日本の江戸時代後期から明治初期にかけて活動した土佐派の絵師、日本画家。土佐派分家の2代目土佐光孚の次男で、後に本家に養子入りし、土佐派第22代を継いだ。幼名は延丸、字は子炳、号は韓水。名は「みつあや」ともよむ。
略伝
京都出身。兄に分家を継いだ土佐光清がいる。宗家の土佐光禄に後継がいなかったため、嗣子となり土佐本家を継ぎ、禁裏所預となった。文政11年10月13日(1828年11月19日)数え17歳で従六位上・肥後介、天保6年8月23日(1835年10月14日)24歳で正六位下・左近衛将監、同13年1月29日(1842年3月10日)31歳で従五位下、嘉永2年閏4月9日(1849年5月30日)38歳で従五位上、安政3年2月5日(1856年3月11日)45歳で正五位下、慶応2年8月10日(1866年9月18日)55歳で従四位下・備前守に叙される[1]。
安政度御所障壁画制作では、画工頭を務めた。絵師としては東山春秋画会に参加し、解散後は中島来章・塩川文麟らと如雲社を創設し、明治の京都画壇の架け橋となった。明治維新後も、明治4年(1872年)の京都博覧会で賞状を受けるなど活動を続けている。明治12年(1879)死去、享年68。墓所は知恩寺。跡は息子の土佐光章が継いだ。弟子に川辺御楯、川崎千虎、柴田真哉など。
作品
作品名
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技法
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形状・員数
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寸法(縦x横cm)
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所有者
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年代
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落款・印章
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文化財指定
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備考
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松島図襖
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麻本墨画
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襖2面
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205.0x133.0(各)
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宮内庁京都事務所
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1855年(安政2年)
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清涼殿鬼の間北面所在[2]。
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若ノ浦図襖
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麻本墨画
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襖2面
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205.0x133.0(各)
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宮内庁京都事務所
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1855年(安政2年)
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清涼殿台盤所南面所在で、松島図襖の裏面[2]。
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青葉山図襖
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絹本著色
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襖2面
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161.0x118.5(各)
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宮内庁京都事務所
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1855年(安政2年)
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清涼殿台盤所北面所在[2]。
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宮城野図襖
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絹本著色
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襖2面
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161.0x118.5(各)
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宮内庁京都事務所
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1855年(安政2年)
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清涼殿朝餉の間南面所在で、青葉山図襖の裏面[2]。
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天橋立図襖
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絹本著色
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襖2面
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161.0x82.6(各)
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宮内庁京都事務所
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1855年(安政2年)
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清涼殿御手水の間東側所在で、土佐光清筆「難波江図」の裏面[2]。
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勢田橋図襖
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麻本墨画
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襖2面
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205.0x133.0(各)
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宮内庁京都事務所
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1855年(安政2年)
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清涼殿御手水の間北側所在[2]。
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竹ニ虎図
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紙本著色総金雲取金砂子金泥引
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襖20面
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188.5x94.0(各)
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宮内庁京都事務所
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1867年(慶応3年)[3]
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花卉図・遊漁図・水草ニ蛍図・水草ニ蟹図
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絹本著色金砂子金泥引
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御袋棚小襖16面
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79.2x34.5(各)
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宮内庁京都事務所
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1867年(慶応3年)
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竹ニ虎図と共に御常御殿御寝の間所在。安政度では原在照筆の障壁画だったが、この部屋で孝明天皇が崩御したため、模様替えのため描き改められた[3]。
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脚注
- ^ 松尾芳樹 「近世土佐派記録集(ニ)」『京都市立芸術大学芸術資料館年報』第4号、1994年8月25日。
- ^ a b c d e f 『京都御所造営をゆかりの至宝 ー甦る宮廷文化の美ー』第121-126図。
- ^ a b 『京都御所障壁画 ─御常御殿と御学問所─』第9,10図。
参考文献
- 京都国立博物館 宮内庁京都事務所 京都新聞社編集 『京都御所障壁画 ─御常御殿と御学問所─』 京都新聞社、2007年1月6日
- 京都国立博物館編集 『特別展 御即位二十年記念 京都御所造営をゆかりの至宝 ー甦る宮廷文化の美ー』 京都新聞社 NHK NHKプラネット、2009年1月10日
関連項目