園祥子(その さちこ、1867年12月23日(慶応3年11月28日) - 1947年(昭和22年)7月7日)は、明治天皇の側室。園基祥伯爵令嬢。宮中では小菊典侍(こぎくのてんじ)、夕顔局(ゆうがおのつぼね)と呼ばれた。
家系
父の園基祥(1833-1905)は、雅楽や神楽を家職とした公卿・園家の出で、万延元年(1860年)より睦仁親王(のちの明治天皇)の家司を務めていた[2]。実兄に細川利永の養嫡子となった細川利文。
また祖母である松浦季子の妹・中山愛子は明治天皇の外祖母である。
生涯
明治天皇の後宮において、柳原愛子典侍と並び寵愛あつい女官のひとり。女官一の頓才(気が利く)でありながら気が軽く、それが森厳で荘重な明治天皇の気質と調和したとされる。
明治天皇間に久宮静子内親王(夭折)・昭宮猷仁親王(夭折)・常宮昌子内親王(竹田宮恒久王妃)・周宮房子内親王(北白川宮成久王妃)・富美宮允子内親王(朝香宮鳩彦王妃)・満宮輝仁親王(夭折)・泰宮聡子内親王(東久邇宮稔彦王妃)・貞宮多喜子内親王(夭折)の2男6女を儲ける(うち成人したのは皇女4人のみ)。
30年以上にわたり高崎正風男爵の指導を受けて、毎日明治天皇から下される歌題を詠んでいるため、祥子は歌道に秀でており、1912年(明治45年)の歌会始では「松上鶴」の勅題に対しての詠進が、選歌に入った。
「
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あさひさす こまつがはらに あしたづの ちよのこゑこそ しげくきこゆれ
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」
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—園祥子(明治45年歌会始「松上鶴」
より)
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明治天皇の崩御後は貞明皇后の女官長となり、若君(後の三笠宮崇仁親王)の出産に立ち会った。従二位勲二等宝冠章を受ける。
源氏名について
- 夕顔局
- 当時、明治天皇のプライベートな居室には電灯、ガス灯、ランプは一切なかった。代わって、季節に応じた照明(提灯、灯篭)を用いた。秋に用いる夕顔灯籠は女官の手作りであるが、ある時、明治天皇が灯篭に近づいてみると、人の目・鼻の穴が開けてある滑稽な灯篭で、謹厳な天皇が思わず声を上げて笑った。この夕顔灯篭の作り手が、祥子であり、以来、夕顔局と称されるようになった。
系図、皇子女
栄典
- 位階
著述
参考文献
脚注
注釈
出典
外部リンク