国民政府委員会
国民政府委員会(こくみんせいふいいんかい、繁: 國民政府委員會)は、中華民国国民政府の最高意思決定機関である。合議制が採用されており、国民政府主席が代表を務める。行政院・立法院・司法院・国民政府軍事委員会などの重要機構の人員を任命する権限を有していた。1925年(民国14年)7月1日の国民政府成立に伴って設置され、1948年(民国37年)5月20日の中華民国政府成立に伴って廃止された。 沿革1925年(民国14年)7月1日に広州にあった中華民国陸海軍大元帥府大本営が改組されて国民政府が成立し、国民政府委員会が設置された[1][2]。中国国民党中央執行委員会は汪兆銘・胡漢民・戴季陶・于右任・徐謙・張継・譚延闓・許崇智・林森・廖仲愷・伍朝枢・古応芬・朱培徳・孫科・程潜の16人を国民政府委員に任命した。そのうち汪兆銘、胡漢民、譚延闓、許崇智、林森の5人が常務委員を務め、汪兆銘は国民政府委員会主席(国民政府主席)に就任したが、この時点の国民政府主席は特権を有さない名誉職であった[3][4]。国民政府は1927年(民国16年)3月に武漢へ移転し、引き続き国民政府委員会を最高意思決定機関とした。汪兆銘・譚延闓・于右任・程潜・孫科・李宗仁・徐謙・宋子文・李済深・朱培徳・唐生智・馮玉祥・陳友仁・顧孟余・譚平山・蔣介石・柏文蔚・孔庚・鈕永建・王法勤・何応欽・宋慶齢・呉玉章・黄紹竑・彭沢民・経亨頤・楊樹荘・陳調元の28人が国民政府委員、そのうち汪兆銘・譚延闓・孫科・徐謙・宋子文の5人が常務委員に就任し、主席職は廃止された[5][6][7]。 上海クーデター(4月12日)後の4月18日、蔣介石は胡漢民・柏文蔚らと共に南京に新たな国民政府を樹立し、国民政府は武漢と南京の2つに分裂した(寧漢分裂)[1][7][8][9]。南京国民政府の国民政府委員会では主席職が復活して胡漢民が就任し、常務委員は7人に増やされた。 8月19日、武漢国民政府は南京国民政府への合流を宣言し、政府機関を南京に移すことを決定した[10][11]。9月に南京において国民政府委員の選出が行われ、常務委員には胡漢民・李烈鈞・蔡元培・汪兆銘・譚延闓が選出されたが、汪兆銘は就任の翌日に辞任した。 1928年(民国17年)2月に行われた国民党第2回中央執行委員会第4次全体会議にて、国民政府の再編に関する提案が可決され、国民政府委員の定数は12-16人、常務委員は5人と規定され、五院(行政院・立法院・司法院・考試院・監察院)の院長・副院長は委員会によって選出されることが規定された。同年10月には新たな「中華民国国民政府組織法」が施行され、国民政府を中華民国の最高指導機関と規定された。国民政府主席、五院の院長と副院長を含む国民政府委員[注 1]が国民政府委員会を構成し、国務を処理すると規定され、この状態は1948年(民国37年)に国民政府が廃止されるまで続いた。改組当初の国民政府委員は蔣介石(国民政府主席)・譚延闓(行政院長)・馮玉祥(行政院副院長)・胡漢民(立法院長)・林森(立法院副院長)・王寵恵(司法院長)・張継(司法院副院長)、戴季陶(考試院長)・孫科(考試院副院長)・蔡元培(監察院長)・陳果夫(監察院副院長)・何応欽・李宗仁・楊樹荘・閻錫山・李済深・張学良の17人であった[12][13]。 国民政府委員会の人員以下は、1927年9月の寧漢合流から1948年5月の国民政府廃止までの期間の国民政府委員会の人員の一覧である[14][15]。 1927年9月-1928年2月国民政府常務委員国民政府委員
1928年2月-10月国民政府主席
国民政府常務委員国民政府委員
1928年10月-1931年6月国民政府主席
国民政府委員
1931年6月-12月国民政府主席国民政府委員
1931年12月-1943年9月国民政府主席国民政府委員
1943年9月-1947年4月国民政府主席
国民政府委員
1947年4月-1948年5月国民政府主席
国民政府副主席
国民政府委員
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目 |