国本剛章
国本 剛章(くにもと たけあき、1962年1月11日[1] - )はゲームミュージックの作曲家、ベーシスト。愛称は「キノコ」で、「キノコ国本剛章」名義でも活動している。 経歴生い立ち、ハドソン楽曲制作時代北海道札幌市出身[1]。北海道札幌南高等学校普通科卒、北海道大学工学部出身[2][3]。 6歳の時に父からピアノを買い与えられ、小中学生の9年間ピアノを習う[4][5]。また、中学生の頃からロックや洋楽に興味を持ち始める[5]。 大学時代はバンド活動とアルバイトに明け暮れ、結果的に大学は2回留年し6年通った末に除籍となっている[6]。1度目の留年をした1985年の5年生の時には、当時ヤマハのMSX用ミュージックシーケンサーソフトで曲の打ち込みをしていた腕を買われ、ヤマハ札幌店の店内で自動演奏のデモや接客のアルバイトを行っていた[7][5]。そうした中、札幌市に本社があったハドソンのプログラマーである笹川敏幸が来店して店内で流れる自動演奏の曲に興味を持ち、曲を作った国本を会社に誘う[8][5][6]。会社では、開発進行度が7、8割ほどだった『チャレンジャー』の画面を見せられて曲作りを依頼され、同年10月の23歳の時に発売、これがゲーム音楽作曲家デビュー作となる[9][5]。なお、国本はこれ以降ハドソンの楽曲を多く手掛けているが、ハドソンの社員ではない[10]。 1986年発売の『迷宮組曲 ミロンの大冒険』の曲を作っていた時期に大学の担当教授から「卒業の見込みはない」として授業料を払って中退するか払わずに除籍になるかの2択を迫られ、前述のように除籍となる[11]。一方、1987年頃のハドソンでは企業規模拡大の影響で複数のゲームの曲を同時並行的に複数の作曲家が担当する体制になり、詳しい状況説明がないまま発注されることもあったため、曲に対する思い入れが低下していく[12]。また1988年頃には、発売が予定されていた『天外魔境 ZIRIA』(1989年発売)の作曲に映画『ラストエンペラー』(1987年公開)で賞を受賞し注目を浴びていた坂本龍一を起用したという話を聴いて「自分には二度とゲーム音楽制作の依頼はこないだろう」と感じ、実際にハドソンからの仕事依頼が自然消滅した[10][7]。こうしたことが決め手となり、1988年の秋頃、26歳の時にバンドメンバーとともに札幌を離れて上京する[5][13]。 サラリーマン時代これ以降、サラリーマンをしながら趣味でバンド活動を行うという生活が20年ほど続く[12]。1990年11月には、バンドオーディション番組『三宅裕司のいかすバンド天国』にバンド「星観る人」として出演する[5][14]。一方、同じ1990年頃にはハドソンとは別の会社からゲームボーイ用ソフトの曲作りを依頼されるが、制作した曲は結局採用されなかった[10]。1990年代以降はゲームハードの進化により同時発音数が増加したり生音で音数を実質無限に使えたりする時代を迎え、少ない音数の音楽を得意とする国本のもとにゲーム音楽の仕事が来ない状況となる[12]。 2000年代半ば頃よりPCでインターネットを利用し始め、その中で、国本の曲を子供時代に聴いていた人たちが曲について話している様子を見つける[12]。制作当時の国本は小学生に受ける曲を作ろうという意識を持っていたが[15][16]曲の評価を知る手段がなかったため、インターネットを通じて初めて自分の曲が受けていたことがわかる[12]。そして2005年11月19日、43歳の時にブログを開設し、自分の曲のことなどについて情報発信を始める[17]。当初のアクセス数は1週間で10件程度だったが、約3か月後、ゲーム音楽研究家のhally(田中治久)のサイトでブログが紹介されるとアクセス数が100倍に急増し、チップチューン愛好家から注目されるようになる[10]。その後、2008年には札幌時代のバンド仲間・どろんぱとのユニット「RE:YES」を結成[18][19]、同年にはファミリーコンピュータ(ファミコン)用ソフトの曲を生演奏するバンド「コロニー落とし」に参加[20]、2009年には音楽家の松澤健とのユニット「タケちゃん&健ちゃん」(後に「&」がない「タケちゃん健ちゃん」に改名[21])を結成する[22]。2009年7月4日にはブログで結婚報告を行った[23]。 2010年9月に行われた「タケちゃん&健ちゃん」のライブ会場で、客として来ていたゲーム音楽作曲家の梅本竜と出会う[24]。当時国本は梅本のことを全く知らず、ライブ終了後に軽い話をするのみだったが、同年11月に梅本からメールが届き、今度CDを出すことになったので制作を手伝ってほしいと依頼される[24]。これに対し国本は、音楽制作から長らく離れており創作意欲を失っていること、そしてそもそも楽曲を制作するDAW環境を持っていないことから申し出をやむなく断るが、その後梅本から2度目のメールが届き、制作が難しいならベースを弾いて録音に参加してほしいと依頼されて仕事を受けることになる[24][25]。そしてある時、梅本から音楽制作ソフト「Logic Pro 9」をインストールしたほぼ新品のMacBook Proを「預ける」といってプレゼントされ、「これで国本さん、作曲してください」「自分はLogic使ったことないので、国本さんが先に勉強して私に教えてください」と告げられる[12][26]。こうした梅本の熱意ある行動に国本は次第に気持ちが高まり、同時に退屈に感じていたサラリーマン生活に対して区切りがついたことから、2011年3月に約20年勤めた会社を退職する[26][27]。しかしそのさなか、梅本は2011年1月頃から病気で体調を崩し[26]、同年8月16日に37歳で死去する[28]。同年10月22日開催のライブでは梅本が作曲したゲームソフト『赤い刀』の曲が演奏され[29][30]、以降も国本はライブや追悼CDなどで梅本の曲の演奏に参加している。また、ブログなどでは折に触れて梅本に対する思いを語っている。 作曲活動再開後2012年8月3日に初のソロアルバム『ひつじの丘』をリリース。収録曲の打ち込み、録音、ミックスは全て梅本竜から託されたMacBook Pro+Logic Pro 9上で行い、収録7曲目の「膠着」は梅本の闘病時の様子を表現している[31][32]。 同じ2012年にはギタリストのテンドウとのユニット「オール1ブラザーズ」を結成[33]。2013年からは歌手・のこいのこのライブサポートメンバーとしても活動する[34]。 2016年1月30日にコロンバスサークルが発売したゲームソフト形式の音楽アルバム『8BIT MUSIC POWER』に楽曲1曲を提供[35][36]。ゲーム音楽作曲家としての作品発表は1989年発売の『ブレイクイン』以来で[注 1]、以降ゲーム作品への楽曲提供を再開する。 2017年には音楽グループ「ゲー音部」のメンバー・さば夫とのユニット「剛剛ズ」を結成[37]。2020年にはゲーム音楽作曲家の古川元亮とのユニット「FKS37」を結成する[38]。 2022年5月9日に2枚目のソロアルバム『Baby's breath』をリリース。全12曲中8曲がボーカル曲で、そのうち7曲は作詞も国本が担当している[39]。 2023年、テンドウと組むオール1ブラザーズにドラマーの菜摘を加えたスリーピースバンド「ピコピコハンマーズ」を結成[40]。 人物
作風
作品ゲームソフト作曲作品を記載。特記のないものは全曲担当。
ディスコグラフィソロアルバム
音源集ゲーム音源そのままではなく、制作時のFM音源版を収録している。当時採用されなかったボツ曲も多数収録。
参加ユニットアルバム
1988年に結成したスリーピースバンド。2000年に解散。2006年から2007年にかけて自主盤として復刻した。
1980年代末に結成したユニット。
2008年に札幌時代のバンド仲間と結成したユニット。
2008年より2013年まで参加。R&G(ロック&ゲーム)を掲げるファミコンバンド。野狐禅のメンバーであるハマノヒロチカも参加。
2009年に松澤健と結成したユニット。結成当時の名前は「タケちゃん&健ちゃん」だったが2018年に改名した[21]。
2012年に結成したユニット。
その他楽曲作曲作品を記載。ユニットによる楽曲やアルバムが初出の楽曲を除く。
トリビュートアルバム国本の楽曲を様々なミュージシャンがアレンジしたトリビュートアルバム。国本自身も一部楽曲で参加している。
主催イベント出演者項目の太字は本人出演。 以下のほか、主催ではないが、ゲーム音楽イベントの運営団体「FGMF(福岡ゲームミュージックフェス)」の名誉顧問に就任している[77]。 JADEシリーズ(100名以上のキャパの会場で、さまざまな編成・音楽性のグループ、個人が集うコンサート)[78]
CHALLENGERシリーズ(100名未満の会場で、自身が新しい「何か」に挑戦する企画)[78]
BURST シリーズ(ゲーム音楽をROCKバンド形態で演奏しているグループだけが集まるイベント)[78]
脚注注釈出典
外部リンク
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