君塚省三君塚 省三(きみづか[1] / きみつか[2] せいぞう、1856年5月26日(安政3年4月23日[1])- 1906年(明治39年)5月20日[1][2][3])は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県夷隅郡総野村長。幼名・道太郎[1]。 経歴上総国夷隅郡芳賀村(千葉県[2]夷隅郡芳賀村、総野村[3]芳賀[1]、勝浦町を経て現勝浦市[1]芳賀)で、農業・君塚勘解由左衛門芳高(のち傳に改名)の長男として生まれた[1]。1874年(明治7年)自ら省三に改名[1]。大喜多の私塾・大泉堂で学び[1]、その後、大多喜藩校・明善校で漢学を修めた[1]。 1875年(明治8年)第6大区第1小区副戸長に就任した[1]。1879年(明治12年)以文会の結成に参画し[1][3]、1881年(明治14年)自由党が結党されるとこれに加わった[1]。1883年(明治16年)3月、千葉県会議員補欠選挙に当選し[1]、1894年(明治27年)9月まで在任し[1]、この間、同常置委員、地方衛生委員、県徴兵参事員、同議長(1892年4月就任)、夷隅郡徴兵参事員などを務めた[1][2][3]。また、1890年(明治23年)6月、初代総野村長となり[1][2][3]、1891年(明治24年)以文会第2次会長に就任した[1][3]。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(千葉県第1区、自由党)で落選したが[4]、1894年(明治27年)9月、第4回総選挙(千葉県第4区、自由党)で当選し[1][5]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。 実業界では、1893年(明治26年)総武鉄道取締役[1][2][3]、1899年(明治32年)千葉遠洋漁業重役に就任し[1][2][3]、その他、日本赤十字社千葉支部商議員、千葉県教育諮問会員なども務めた[1]。 親族脚注参考文献
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