吉田良義
吉田 良義(よしだ なかよし[2]/よしのり[1])は、幕末の公卿。吉田良熈の子。明治期の神職・華族。子爵。 経歴天保8年(1837年)、京都で吉田良熈の子として誕生[1]。嘉永2年12月29日(1850年2月10日)、叙爵される[4]。嘉永3年9月28日(1850年11月2日)、元服し昇殿を許される[1][3]。 安政3年2月5日(1856年3月11日)、侍従[1][3]。安政5年(1858年)、父と共に廷臣八十八卿列参事件に加わった[1]。慶応元年12月23日(1866年2月8日)、従三位に叙され、公卿となった[4]。慶應2年1月2日(1866年2月16日)の白馬節会では外弁を務めた[5]。慶應3年8月26日(1867年9月23日)、神祇権大副に任じられた[1][3][6]。慶應4年4月2日(1868年4月24日)父の薨去により服解し、同年閏4月23日に除服し、出仕・復任する[3][7]。明治2年、百官の廃止に伴い、律令制下の官職である侍従・神祇権大副を解任された。 明治維新を迎え、家学吉田神道の隆盛を意図して平田銕胤、矢野玄道から国学を学んだ[1]。慶応4年2月20日(1868年3月13日)、参与、神祇事務局補となる[1][8]。以後、皇学所御用掛、宮中勤番、皇太后宮職勤番などを務めた[1][8]。 明治12年(1879年)、吉田神社宮司となる[9]。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した[10]。同年7月17日、日枝神社宮司に就任し[11]、明治20年(1887年)3月29日に再任[12]、明治23年(1890年)3月4日の帰幽まで務めた[13]。没日付で従二位に叙されている[14]。 位階出典のないものは公卿補任による[4]。
系譜脚注注釈出典
参考文献
官報
|