吉田良熈
吉田 良熈[1](よしだ よしひろ[2][3][4])は、江戸時代後期の日本の公卿。 生涯吉田良長の子として、文化7年(1810年)に誕生。母は仙石久道の娘。初名は良芳(ながよし)。 文政4年(1821年)、12歳で叙爵され、同6年12月10日(1824年1月10日)、14歳で元服、昇殿を許される。天保8年8月1日(1837年8月31日)、28歳のとき、拝賀した。弘化4年(1847年)、従三位に叙され、38歳で公卿に列せられる。 嘉永元年(1848年)は元日節会の外弁、嘉永3年(1850年)は踏歌節会の外弁を、嘉永4年(1851年)と嘉永5年(1852年)は白馬節会の外弁を務め、その年の12月19日(1853年1月28日)に直衣を許された。嘉永6年3月1日(1858年4月8日)、44歳のとき名を良熈と改名する。安政5年3月12日(1858年4月25日)、廷臣八十八卿列参事件に息子の良義とともに参加した[5]。 慶応4年(1868年)4月1日、神祇権大副を辞任し、その翌日に薨去した。58歳。 官歴
系譜脚注注釈出典
参考文献
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