吉備海部赤尾吉備海部 赤尾(きびのあまべ の あかお、生没年不詳)とは、日本古代の5世紀後半の吉備の豪族。姓は直。 一族について吉備海部直氏は神魂命の末裔で、吉備国一帯の瀬戸内海に分布した海人族集団の首長と想定される。 牛窓町の黒島古墳、牛窓天神山古墳、鹿歩山古墳、波歌山古墳は吉備海部直氏の古墳であると考えられる[1]。 この時代の日本と半島のつながりは、南朝宋の昇明2年(478年)、順帝に奏上された倭王武の上表文[2]にも示されている。朝鮮半島側の史料でも『三国史記』・『三国遺事』の慈悲麻立干・炤知麻立干両王の記事[3]などにより、客観的に証明されている。 大和朝廷と吉備海部直一族のつながりについては、『古事記』の以下の記述も参考になる。 仁徳天皇は吉備海部直の娘である黒日売(くろひめ)を妃にしようとし、大后(皇后)の嫉妬を買い、互いに歌を交わし合った。また、「水取司」(もひとりのつかさ)に使役されていた吉備国の児島の仕丁(よぼろ)は、「難波の大渡(おおわたり=渡し場)に後れたる倉人女(くらひとめ)」の船に遭遇し、「天皇はこのごろ八田若郎女(やた の わきのいらつめ)に婚わいなさって、昼夜戯れお遊びなさっておられますが、もしや大后はこの事を聞いてないからでしょうか、落ち着いてお出かけになるとは」と語った。倉人女はこのことを大后にありのままに伝えた、という[4]。 6世紀には大和朝廷は556年に児嶋の屯倉を設置し[5]、吉備中枢部からの海上交通のための出口を押さえようとしている。 記録『日本書紀』巻第十四に赤尾の名前が現れるのは、以下の2箇所である。
ここでいう「中国」(みかど)とは大陸の中国ではなく、大和朝廷のことである。 すなわち、弟君と赤尾に与えられた任務とは、
の2点である。 その後、弟君は父親の田狭の誘いにのって、大和政権を裏切ろうとしたという理由で妻の樟媛(くすひめ)によって殺された。樟媛は、
雄略天皇は、弟君がいなくなったことを聞いて、日鷹吉士堅磐(ひたか の きし かたしわ)を通じて共に復命させた。 以上のように、とりあえずは、2.の目的だけは達成できたわけである。1.については、翌年の新羅救援のための任那日本府対高句麗戦、翌々年の新羅遠征にまで持ち越されることになる。しかし、結局は実現しなかった。 なお、或本によると、弟君自身が百済より帰国し、漢手人部(あやのてひとべ)、衣縫部(きぬぬいべ)、宍人部(ししひとべ)を献上したことになっている[6](「弟君」の名を借りて、樟媛あるいは赤尾が行った可能性もある)。 赤尾にまつわる記述はここまでである。ただ、その後も吉備海部一族は半島で活躍しており、敏達天皇2年5月(573年)には吉備海部直難波(きびのあまの なにわ)が高句麗からの使者を送る使いとなったが、任務を放棄し、虚偽の報告をしたため、翌年7月に処罰されている[7]。同12年(583年)には吉備海部直羽嶋(きびのあまの はしま)が、日羅(にちら)を迎えに2度にわたって百済に遣わされている[8]。 脚注参考文献
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