吉備氏の乱
吉備氏の乱(きびしのらん)は、雄略天皇7年(推定463年)に吉備上道臣田狭(吉備田狭)が新羅と結託して大和朝廷に対して起こした反乱である。「反乱」とあるが、実際の戦闘行為があったとは記されてはいない。 概要雄略天皇7年、吉備上道田狭が朝廷で妻の稚媛の美貌を自慢していることを聞いた雄略天皇が、田狭が国司として任那に派遣している間に稚媛を奪ったためだと『日本書紀』巻第十四には記載されている。 朝廷は吉備田狭の子、弟君と吉備海部赤尾を討伐に向かわせ、同時に同じ朝鮮半島の百済から技術者を連れてくる任務も追加した。しかし、弟君は、現地では老女に化けた国神(くにつかみ)の言を信じ、新羅への道は遠いものと思い込んで進軍をためらい、波風にかこつけて、百済からの技術者を大嶋に滞留させたままにしておいた。すると、父親の田狭からの使者が現れ、百済の協力を得て自分に裏切るようにとすすめた。弟君はそのことを知った妻樟媛に殺された。樟媛と赤尾は大嶋へ赴き、天皇は日鷹吉士堅磐固安銭を派遣して、復命をさせた。 反乱は失敗し、田狭は行方知れずとなった[1]。 異説『日本書紀』には、「別本に曰はく」・「或本に曰はく」として、以下のような異説も述べられている。
吉田晶は、以上の異説(分注)の方に真実性があり、吉備氏と葛城氏の連合の動きを、雄略天皇が阻害しようとしたのではないか、と述べている。加えて、480年前後の任那(伽耶)における政治的な統一が進行し、479年に加羅国王荷知が南朝の斉から「輔国将軍」の称号を得ていること、吉備勢力が半島で独自の密接な交流を進めていることなどにも注目すべきであると主張している[2]。 吉備下道前津屋の乱この反乱と関連性があるのかどうかは不明だが、同年、吉備本国でも、以下のような動乱が発生していた。 雄略天皇の「官者」(とねり)であった吉備弓削部虚空は、一族の吉備下道前津屋に留め置かれて、都へ帰ることができなかった。何とか虚空の召還に成功した天皇は、虚空より前津屋が反乱の意思を抱いて天皇を呪詛する非道な行いをしていることを知らされた。天皇は、物部の兵士30人を派遣して、前津屋の一族を皆殺しにした[3]。 星川皇子の乱その後、稚媛は雄略天皇の子星川稚宮皇子を産み、『書紀』巻第十五によると、雄略天皇23年8月(推定479年)に雄略天皇の死後に皇子を皇位につけようとした、星川皇子の乱を起こした。吉備上道臣らはこれに水軍40艘を率いて来援したが、皇子の敗死により引き返した[4]。 要因以上の動きの背景には、巨大古墳群を築造することを可能にした、吉備一族の経済力が大いに関わっているとみて間違いはないであろう。また、吉備地方が瀬戸内海や山陽道の要衝であり、大陸への拠点であって、半島派遣時に課せられた軍事的・経済的負担が吉備氏反乱の大きな要因であったとも見ることができる。吉備一族はこの翌年も任那日本府の将軍として吉備小梨が活躍しており[5]、雄略天皇崩御時には、配下の蝦夷たちの反乱を吉備尾代が平定した[6]、とある。雄略天皇9年の新羅との戦争では、将軍紀小弓に隨行して、吉備上道采女大海が半島へ渡っている[7]。欽明天皇の時代にも吉備臣が活躍しており、上述の吉備海部一族も敏達天皇の時代にかけて、難波・羽嶋が外交上、重要な役割を果たしている。 半島側の史料『三国史記』「新羅本紀」にも、慈悲麻立干と炤知麻立干の治政の459年から500年にかけて「倭」が侵入したという記載がある[8]。 脚注参考文献
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