台湾省の行政区画台湾省の行政区画(たいわんしょうのぎょうせいくかく)では、中華民国台湾省の管轄下にある二級行政区(県・市)について説明する。2024年(民国113年)現在、台湾省には17の二級行政区(14県・3市)が存在する。 歴史→「日本統治時代の台湾行政区分」および「台湾の行政区分」も参照
台湾の行政区画の歴史は、17世紀のオランダやスペインによる統治時代に始まった。 1626年、スペインは台湾北部にハモサ(艾爾摩沙)植民地を設立し、その管轄地域を淡水・カバラン(噶瑪蘭)・トゥロボアン(哆囉満)の3省区に分割した[1][2]。1624年、オランダは台湾南部にフォルモサ(福爾摩沙)植民地を設立した。オランダは1642年に鶏籠の戦いでスペインを破って台湾北部を占領した後、植民地を北部・南部・淡水・卑南の4地方会議区に分割した[3][4]。1661年、延平王の鄭成功はオランダ人を駆逐して台湾を占領して東都と改称し、承天府・天興県・万年県の1府2県を設置した。1664年、鄭成功の子の鄭経は東都を東寧と改称し、天興県と万年県を州に改め、澎湖・北路・南路の3安撫司を新設して1府2州3司となった[5][6]。 1683年、清の康熙帝は施琅率いる軍を台湾に侵攻させ、澎湖海戦で鄭氏軍を破って鄭克塽(鄭経の子)を降伏させた[7]。1684年、清の支配下に入った台湾は福建省に編入されて台湾府が設置され、その下に台湾・鳳山・諸羅の3県が設置された[8][9]。1727年には4県2庁、1845年には4県3庁となり、1875年には北部を分割して台北府が設置され、台湾府・台北府の下部行政区画は合計8県4庁となった[10][11][12]。1887年に福建省を分割して福建台湾省が設置され、台北・台湾・台南の3府と11県3庁、並びに台東直隷州が設置された[13][14]。1894年には南雅庁が設置され、福建台湾省の最終的な下部行政区画は3府11県4庁1直隸州となった[15]。 1895年(明治28年)、日清戦争での敗北に伴い、清は日本と「下関条約」を締結して台湾を日本に割譲した。日本統治時代の初期の台湾の行政区画は3県1庁であったが、その後複数回の改編を経て1901年(明治34年)には20庁、1920年(大正9年)には5州2庁、1926年(大正15年)には澎湖庁が設置されて5州3庁となり、以降この体制が維持された[16][17][18][19][20]。また、1920年以降、州の下で市制が施行され、1945年(昭和20年/民国34年)の台湾光復時点で11の市が存在した[20]。 台湾光復以降の変遷
一覧県
市
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |