古今亭圓菊 (2代目)
二代目 古今亭 圓菊(ここんてい えんぎく、1928年4月29日 - 2012年10月13日)は、静岡県出身の落語家。出囃子は『武蔵名物』。紋は『裏梅』。本名∶藤原 淑。長男は同じく落語家の三代目古今亭圓菊。 昭和を代表する落語家・五代目古今亭志ん生の弟子として、志ん生から多くのネタを継承。体をよじる、ボクシングのファイティングポーズのようなコミカルな仕草と、独特な「圓菊節」とも言われる口調で人気を集め、「寄席の爆笑王」の名を恣にした落語家である。また、手話落語を創案。刑務所篤志面接などのボランティア活動も続けていた。 経歴静岡県志太郡伊久身村(現:島田市)に生まれる。生家はしいたけ農家。静岡県立島田商業高等学校を卒業し、一時三菱重工に就職。落語は入門前に、人形町末廣で一度聴いただけ[1]だった。 1953年7月、十返舎亀造の紹介により五代目古今亭志ん生に入門し、「古今亭生次」を名乗る。1957年3月に二ツ目昇進、「六代目むかし家今松」となる。1966年9月に真打昇進、「二代目古今亭圓菊」を襲名[2][3]。 1979年、落語協会理事に就任。1984年、刑務所篤志面接委員に着任。1996年、刑務所篤志面接理事に就任。2008年に転倒した際に脳挫傷となり入院[4][5]、療養した。2009年に一門会で復帰したが、その回の「厩火事」が最後の高座となった[6]。2011年の一門会では挨拶のみ出演した。2010年に落語協会相談役に就任。 2012年10月13日9時、多臓器不全のため、東京都北区の病院で死去した[7]。84歳没。最後の直弟子であった古今亭文菊の真打昇進披露興行が行われている最中の死去となった。戒名は「淑徳院圓菊日輪居士」。葬儀委員長は花井伸夫。葬儀に寄せられた芳志は、故人の遺志により読売光と愛の事業団に寄贈された[8]。 芸歴
役職人物前述のとおり、この名跡の初代は圓菊の師匠志ん生だった。しかし圓菊は「師匠は三遊亭で名乗ったから、俺が初代だ!」と周りにふれこんでいた。三代目古今亭志ん朝亡き後は、古今亭一門の総帥となった。 出囃子が同じだった十代目桂文治とは犬猿の仲とされ、同席するとトラブルが多かったという[10]。 演芸カメラマンの橘蓮二は、1995年に許可を得て鈴本演芸場の楽屋に入って緊張していた初日に、圓菊に優しく声をかけられ芸人に紹介してもらい、写真を撮影しやすくなった。橘は、鈴本演芸場の鈴木寧席亭(6代目)と共に圓菊を恩人として深く感謝している[11]。 浅草演芸ホールの11月上席で毎年「二代目古今亭圓菊追善興行」が行われている。一門弟子志ん彌、菊丸、菊春、三代目圓菊、菊之丞、文菊の他内輪色物のぺぺ桜井、マギー隆司、親交が深かった十一代目金原亭馬生、十代目鈴々舎馬風、九代目桂文楽、桂文生らが出演している。2021年の興行は息子の古今亭菊生が三代目古今亭圓菊を襲名したためその披露興行と併せて行われた。また、毎年12月29日の浅草演芸ホールの年末特別興行に「圓菊一門会」が恒例となっており、一門の弟子・孫弟子・色物が総出演する。 主な受賞歴出演番組
著書
CD・DVDCD
DVD
一門弟子落語家真打昇進順による。なお、入門順にすると1.菊龍、2.志ん彌、3.菊春、4.菊丸、5.菊寿、6.菊輔、7.菊千代、(駿菊)、8.三代目圓菊、9.菊之丞、10.菊志ん、11.菊太楼、12.文菊となる。 退会色物系図
弟子入り
廃業
関連作品
脚注
外部リンク |