千貫神社
千貫神社(せんがんじんじゃ)は、宮城県岩沼市南長谷にある神社である。 旧社格は村社。デザイナーの中野裕通の生家である[1][2]。 祭神千貫山の神である大山祇神を主祭神に、別雷神、建御名方命、天御中主神、菊理比売神、伊邪那岐神を祀る。 立地宮城県南東部の岩沼市南西部の千貫山の南麓に鎮座する。かつての東山道にあり、東山道が名取の里岩沼で浜街道と交わる驛玉前(現南長谷玉崎)柵にある[3]。同街道沿いには藤原実方墓、金蛇水神社、東平王塚古墳などが存在している。 千貫神社は旧名取郡千貫村の鎮守であり、かつては千貫山の山中に鎮座していたが[4]、明治初年に野火で焼失し、元宮地には石祠を建てて本殿・幣殿・拝殿等を中腹に、山麓に神殿・社務所を別当寺の真珠院を改築して建てた[5]。現在では山麓に本殿・拝殿・社務所が遷っている。 由緒天平元年4月18日、僧善快が千貫標松領に勧請し大山祇神を祀り漁船守護の神として真珠院(真言宗深谷山、竹駒寺末寺)がこれを兼司して深山大権現と称した。 伊達政宗が太刀と脇差を寄進しており、また七ヶ浜より相馬に至る七ヵ村の漁民が山嶺の松の保存のため金子一千貫を仙台藩に献じている。 明治維新の神仏判然令により寺院が廃止されて深山神社と改め村社に列した。明治41年7月諏訪神社と柳神社を合祀し、翌明治42年2月には雷神社と白山神社の両社を合祀して社号を標松千貫松にちなみ千貫神社と改称する[6]。大正3年には神饌幣帛料供進神社に指定された。 旧千貫村は純農村地帯であり、かつては農事に即した様々な祭事や年中行事が見られたという[7]。 阿武隈川の伝承岩沼市の西側に、深山(みやま=千貫山)という山があり、そこには千貫神社があった。この深山と対岸の亘理町の烏鳥屋山(からすとややま)との間で、阿武隈川が大きく蛇行して流れるようになったことについて、次のような伝説がある。
そのため、川の神である安福河伯神社付近から阿武隈川は東に流れを変え、太平洋に向かうように流れていると伝えられている。 この山の神が千貫神社(旧称深山大権現)の祭神の大山祇神であり、川の神は阿武隈川を挟んで対岸の亘理町に鎮座する安福河伯神社の祭神の速秋津比売神であるという。 慶長三陸地震津波の伝承慶長16年(1611年)12月2日に発生した慶長三陸地震に伴う大津波では、発生当時舟で沖に出ていた伊達政宗の家臣等が流されて千貫神社のあった千貫松の側まで流されたと『駿府政事録』に記されている[8]。 例祭と海遊び神事の伝承例祭日は4月15日であるが、これは元々合祀前の深山神社と雷神社の梅若祭の日であった[9]。例祭日における神輿渡御は延暦年間から始まったとされ、岩沼の藤波、玉浦の早股、押分、寺島、蒲崎、長谷釜の6村を神輿が渡御したが、その中でも長谷釜では海遊びの特殊神事が行われた[10]。 この海遊び神事の御旅所である斎家では、神輿が表口ではなく台所から入る習わしがあり、下記の伝承が残されている[11]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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