勝常寺
勝常寺(しょうじょうじ)は福島県河沼郡湯川村にある真言宗豊山派の寺院。会津中央薬師堂とも称される。山号は瑠璃光山。本尊は薬師如来。寺に安置されている仏像のうち、国宝の木造薬師如来及び両脇侍像をはじめとする12体は平安時代初期の9世紀にさかのぼる造立である。毎年4月28日には薬師如来の祭礼として念仏踊りが催されている。 歴史勝常寺は平安時代初期の弘仁年間(810年 - 824年)に法相宗の学僧・徳一(760?年 - 835?年)によって開かれたといわれている。徳一は中央(畿内)の出身で、藤原仲麻呂の子とも言われるが確証はない。20歳代で関東に下り、会津地方を拠点に宗教活動を行った。日本天台宗の宗祖である最澄と三一権実(さんいちごんじつ)論争と呼ばれる、天台宗と奈良の旧仏教の優劣に関わる論争を行ったことでも知られる。徳一の開創が確実視される寺院としては慧日寺(恵日寺、福島県磐梯町)と筑波山の中禅寺(茨城県つくば市)があり、その他にも多くの寺院を建立したと伝えられる。勝常寺については、徳一の創建を伝える文献等の直接的史料はないが、当寺には本尊薬師三尊像をはじめ、9世紀にさかのぼる仏像が多く残り、これらは徳一が関係した造仏であると考えられている。 創建当時は七堂伽藍とその附属建造物が多数立ち並んでいたと伝えている。木造薬師如来像が本尊とされ、会津五薬師の中心として会津中央薬師と称されるようになる。鎌倉時代後期からは真言宗に属するようになり、近世まで仁和寺の末寺であった。 応永5年(1398年)に火災があり、その後室町時代初期には講堂(現・薬師堂)が再建された。現在残されている建物はその薬師堂以外は近世以降の建物である。 建造物
文化財勝常寺には30余体の仏像があり、うち12体は平安時代初期のもので、おそらく創建時に造立されたものと思われる。平安時代以前の仏像が一寺院にこれだけ多数残っているのは畿内の寺院を除けば非常にまれであり、当寺がこの地域を代表する大規模な寺院であったことがうかがえる。これらの仏像の造立には徳一が何らかの形で関わっている可能性が高い。現在、木造薬師如来坐像は薬師堂に、他の諸仏は収蔵庫に安置されている。 国宝
重要文化財
以上の5体は収蔵庫に安置され、いずれも平安時代初期の作である。
勝常寺周辺の関連仏像湯川村の隣に位置する会津坂下町にある上宇内薬師堂の本尊・薬師如来像は10世紀前半の造立とされ、勝常寺の仏像より約1世紀後の制作である。像高は182.6cmあり、勝常寺の薬師如来像より一回り大きい。しかし、作風は勝常寺像と非常に似ており、勝常寺像の影響を受けている可能性が高い。なお、上宇内薬師堂の薬師如来は会津五薬師のうちの「西の薬師」に比定されている。会津美里町の個人蔵の吉祥天立像(2007年重要文化財に指定)も作風から勝常寺関連の像と推定されている[2]。 勝常寺の創建について勝常寺は徳一の創建といわれてはいるが、それを結びつける史料は皆無である。一方、慧日寺は、空海の伝記でもある『弘法大師行状集記』には空海の建立で空海が帰京するに及んで徳一に寺を譲ったとあるが、『今昔物語』などの諸史料から徳一が建てた寺であることはほぼ間違いがない。では、なぜ勝常寺に徳一時代の造立とされる仏像が多く残されているのだろうか。慧日寺が立地する場所は会津盆地東側の山中にあり、建立当時はおそらく人里から離れ、自然豊かで仏道修行に適した土地であったと想像できる。徳一はここで修行に励むために慧日寺を建立した。一方、徳一は会津の地に仏教(法相宗)を広める大衆教化の役割をも担っていた。そのためには、人里離れた山中にある慧日寺よりも交通の利便性があって人が集まりやすい土地で行う必要がある。勝常寺の建つ地は会津盆地の中央に位置し、まさにそれに適した場所であるといえる。つまり、徳一は会津の民衆への仏教教化を実践する場所として、会津盆地の中央に勝常寺を建立し、仏教的権威を民衆に示すために薬師如来像をはじめとした諸仏像を安置したと考えられる。 所在地福島県河沼郡湯川村勝常代舞1764 交通アクセス脚注参考文献
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