勝川春好勝川 春好(かつかわ しゅんこう、寛保3年〈1743年〉 - 文化9年10月28日〈1812年12月1日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。 来歴勝川春章の門人。本姓は清川、通称伝次郎。勝川の画姓を称す。『画師冠字類考』(観嵩月編、文政年間の成立)には、通称喜三郎、一度破門されて蘭秀と名乗ったが、春章と和睦して春好に改号したとする異説がある[1]。作画期は明和末年から文化の頃にかけてで、作品は細判の役者絵が最も多く、細判二枚続、三枚続に特色が見られる。役者大首絵のほか相撲絵の作もある。天明8年(1788年)から寛政2年(1790年)頃には、半身像による大首絵をさらにクローズアップさせたブロマイドのような「大顔絵」で五代目市川團十郎の『暫』などを描いた。春好の「大顔絵」は後の東洲斎写楽に影響を与えたといわれる[2]。ほかに黄表紙や洒落本の挿絵も手がけている。『浮世絵類考』には四十五、六歳の頃に中風を患い、右手が使えなくなったことにより以後は絵を描くことを止め、麻布の善福寺に遁世したが、烏亭焉馬の求めにより市川白猿の像を左筆で描いたとある[3]。享年70。墓所は台東区西浅草の善照寺、法名は釈春好信士。 作品
脚注参考文献
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