劉師培
劉 師培(りゅう しばい、1884年6月24日 - 1919年11月20日)は、中国清末民初の革命家(アナキスト)・国学者・教育者・政治家。字は「申叔」、号は「左盦」。革命家としては「劉光漢」とも名乗った。 辛亥革命に至る革命運動に参加したが、離反して清朝側につき[1]、35歳で早逝した[2]。章炳麟や黄侃と同様、国学(考証学)でも業績を残した。 経歴1884年、江蘇省揚州府儀徴県にて、左伝を家学とする考証学揚州学派の家系に生まれる。 1889年に父の劉貴曾が科挙に合格し、6歳の劉師培も父から教えを受けるようになる。12歳の時に四書五経を読了。しかし、1898年に父が死去した。18歳の時に県の学生員となり、光緒28年(1902年)に挙人となった(南京省試)。翌年3月に開封で会試を受けたが、不合格となり、上海を経て戻る際に章炳麟と知り合いになった。 1904年に光復会に参加し、章炳麟や蔡元培らと交流。蔡元培が発行していた『俄事警聞』(ロシア排斥運動を提唱)を改め、劉師培が主筆となって新聞『警鐘報』を創刊。しかし、1905年に清国政府の査察を受けて発行停止となり、劉師培は平湖に逃れた。同1905年正月には上海で劉実らが『国粋学報』を創刊しており、劉師培はこの雑誌のために原稿を選ぶ役割を果たした。劉実、章炳麟、梁啓超らと共に近代中国の国粋主義運動の発起者かつ根幹となる人物として、『周末学術史序』、『南北学術不同論』、『論文雑記』などを前後して刊行。劉師培は古学を唱道、国粋学堂を建てることや国学教科書5種を作り各省に図書館を建てること、また各省に書籍志・郷土志を編輯することを勧めた[3]。以降、皖江中学・三江師範学校・成都国学院などの教職に従事する。 1907年から翌年、政府の弾圧を避け、妻の何震とともに日本に亡命。『天義報』を創刊し、幸徳秋水らと交流する[1]。この亡命中に「変節」し始め、革命運動から離反し、清朝政府側につく(理由は諸説ある)[4]。 1911年に山西都督閻錫山の推挙により大総督袁世凱に用いられ、参政院参与となる[3]。康宝忠とともに新聞『中国学報』を創刊し、袁世凱のために君制復古の主張を世に広めようとした。1917年に袁世凱が死去すると天津に移り、生活に困窮した。そのことを北京大学学長であった蔡元培が耳にし、北京大学文科教授として招聘。北京大学は「六朝文学」、「文選学」などの課程を創設した。この時の後に伝わった有名な講義には『中国中古文学史』がある。1919年には『国故学刊』を創刊したが、同年に35歳で没した。死の床で黄侃に「自分は学問だけに従事し、政治に関わるべきでなかった」と吐露したと言われる[2]。 家族・親族著作
日本語訳
外部リンク脚注 |