^「甲論乙駁、白熱した議論でムンムンした熱気が部屋全体に満ち溢れていたが、そこで中心的役割を果たされていたのは、多くの場合、前田さんだった…多彩な議論の中で前田さんが発言、主張されたことの1つを纏められたのが、「東アジアに於ける古代の終末」と題する、あの高名な論文だ」(護雅夫 1994, p. 23)
^「下宿屋みづほ館は、……豪傑というわけではないが東洋史の梁山泊と目されたところである」(山田信夫 1984, p. 168)
^当時言語学科助手であった柴田武によるトルコ語講義、前田直典の指導によるモンゴル語文献の購読、外務省の小川亮作を講師に迎えたペルシア語、学外の、渋谷イスラム協会・大日本回教協会での松本重彦のアラビア語講習会 (山田信夫 1984, p. 174)
^1946年3月30日、前田直典の提唱により大学院学生会の一分科会として「北方史研究会」が結成された:(護雅夫 1984, p. 134)(山田信夫 1984, p. 173)。会発足の記念講話が和田清による「北方史研究について」。山田・護にとって「敗戦直後の、一度は捨て去ったつもりだった青春をいま一度よみがえらすのに懸命であった」日々、北方史研究会は、「決して単純な学問研究の道などではない、人生そのものの方向を下手をすると見失いかねない、そのような状況の下で、ともかくなにかにすがっていたいという思いに、なんらかの意味でこたえてくれたものの一つではあった」(山田信夫 1984, p. 164)(護雅夫 1994, p. 32)