冷泉為村

 
冷泉為村
冷泉為村像
時代 江戸時代中期
生誕 正徳2年1月28日1712年3月5日[1]
死没 安永3年7月28日1774年9月3日[1]
戒名 止静心院殿寂源澄覚
官位 正二位権大納言
主君 中御門天皇桜町天皇桃園天皇後桜町天皇
氏族 上冷泉家
父母 父:冷泉為久
正室:藤谷為信の娘
為泰三室戸光村入江為良舟橋則賢室、山科敬言室、堤敬長室、高倉永範室、町尻量原室、北島惟孝室ら
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冷泉 為村(れいぜい ためむら)は、江戸時代中期の公卿歌人権大納言冷泉為久の子[1]官位正二位[1]・権大納言[1]上冷泉家15代当主。上冷泉家中興の祖とされている。歌人としてのみならず茶の湯も嗜み、自作の茶杓や竹花入などが現存している。

経歴

享保5年(1720年)9歳で元服。その後は累進して、元文3年(1738年)1月従三位に叙されて公卿に列し、延享元年(1744年)8月参議寛延3年(1750年)1月権中納言に任じられた。宝暦2年(1752年)2月従二位、宝暦7年11月25日(1758年1月4日)民部卿に任じられた。宝暦8年(1758年)12月正二位に叙され、 宝暦9年(1759年)10月権大納言に至るが、宝暦10年(1760年)2月これを辞し、明和7年(1770年)2月出家した。

歌人として

享保6年(1721年)に宮廷歌会に初参加[1]。翌年から旧詠歌会にほとんど欠詠することなく、桜町天皇の信頼を得た[1]。のちに霊元上皇から古今伝授を受けた。霊元天皇の勅点の添削を受けた折紙詠草(和歌懐紙)が存在する。烏丸光栄三条西公福中院通躬にも師事し、石野広通小沢蘆庵屋代弘賢など、多数の門人を擁した。父為久が徳川吉宗の厚遇を得ていた関係から、武家に多くの門人がいた[1]

歌集に『冷泉為村卿家集』『冷泉余瀝』、歌論書に『樵夫問答(しょうふもんどう)』、聞書宮部義正の『義正聞書』がある。

系譜

  • 父:冷泉為久(1686-1741)
  • 母:不詳
  • 正室:藤谷為信の娘
    • 男子:冷泉為泰(1735-1816)
    • 男子:三室戸光村(1739-1782)
  • 生母不明の子女
    • 男子:入江為良(1765-1807)
    • 女子:舟橋則賢室
    • 女子:山科敬言室
    • 女子:堤敬長室
    • 女子:高倉永範室
    • 女子:町尻量原室
    • 女子:北島惟孝室

出典

  1. ^ a b c d e f g h 岡本勝, 雲英末雄編『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、222頁。