内藤 正朝(ないとう ただとも[注釈 1])は、戦国時代の武将。大内氏家臣。通称は彦次郎。内藤興盛の次男。兄に隆時、弟に隆春などがいる。
生涯
大内氏の重臣である内藤興盛の次男として生まれる[2]。
桜尾城の戦い
天文10年(1541年)1月12日、厳島神主家の友田興藤が大内氏に叛旗を翻し、厳島を占拠した[3]。これに対し大内氏は、1月15日に厳島を奪回し[4]、3月18日には大内義隆が周防国玖珂郡岩国[注釈 2]から安芸国佐西郡門山[注釈 3]に進んで、興藤の籠城する廿日市の桜尾城に迫った[5]。
3月19日、正朝の兄・内藤隆時指揮下の部隊[注釈 4][6] が藤懸尾[注釈 5]に登り、桜尾城の様子をうかがった[5]が、この部隊に正朝も加わっていた。大内軍は以前にも藤懸尾に陣を構えていたが、3月9日に友田軍によって切り崩されていた[7]。大内軍の動きに対し、桜尾城側からは桑原与四郎らが出撃して合戦となった[8]。大内軍部隊は打ち破られ、正朝をはじめとして熊野藤右衛門尉や宮川大蔵太輔、そのほか主だった者10人余りが討ち死にした[5][9]。
その後、3月23日に大内義隆は七尾[注釈 6]に陣を進めて桜尾城への攻撃を開始し、4月5日に友田興藤が切腹して桜尾城は開城した[11]。
脚注
注釈
- ^ 「正」は大内氏の“みなし偏諱”とみられる。この場合、大内家臣・山形正厚(やまがた ただあつ)の事例から、「正」は「ただ」とよむことになる。
- ^ 現在の山口県岩国市。
- ^ 現在の広島県廿日市市大野町。
- ^ 伊佐隆光も同日の藤懸での合戦で槍傷を受けたが、彼の負傷を内藤隆時が大内義隆に報告している。
- ^ 現在の広島県廿日市市串戸。
- ^ 桜尾城が築かれた丘を含む7つの丘の総称[10]。藤懸尾もその一つ。
出典
- ^ 岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年
- ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.53
- ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.54
- ^ a b c 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.57
- ^ 『萩藩閥閲録』巻93「佐々木彌右衛門」(山口県文書館 編 『萩藩閥閲録 第三巻』1970年 p.45)
- ^ 「友田広就感状写」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.124)
- ^ 「友田興藤感状写」(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.125)
- ^ 「内藤家系譜(『廿日市町史 資料編 1(古代中世)』 廿日市町 1979年 p.694)
- ^ 廿日市市立七尾中学校 学校の概要 http://www.hatsukaichi-edu.jp/nanao-j/nanaojhs_gaiyou.html
- ^ 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.58
参考文献