六郷政純
六郷 政純(ろくごう まさずみ)は、江戸時代後期の大名。出羽国本荘藩の第8代藩主。官位は従五位下・阿波守。 生涯享和元年(1801年)、第7代藩主・六郷政速の三男として誕生した。母は側室。正室は永井直進の娘。 文化7年(1810年)10月13日、長兄・政芳の病気による廃嫡に伴い、政速の嫡子となる。文化9年(1812年)9月15日、11代将軍・徳川家斉に拝謁した。同年12月28日、政速の死去により家督を相続した。文化10年12月16日(1814年)、従五位下・阿波守に叙任する。 幼年で藩主となったため、藩政は家老の内本一九郎が掌握し、藩政改革を行なった。内本は人件費節約や領民に対しての御用金廃止、村名主の佐々木助右衛門登用などの人材登用で手腕を見せたが、藩内保守派の反発を受けて文化10年(1813年)3月に失敗に終わっている。政純自身は絵がうまかったと言われている。 文政5年(1822年)8月22日、嗣子なくして22歳で死去し、跡を養嗣子の政恒(政芳の長男)が継いだ。 系譜父母
正室
養子 |