佐々江 賢一郎(ささえ けんいちろう、1951年(昭和26年)9月25日 - [1])は、日本の元外交官で、アメリカ合衆国特命全権大使などを務めた。現職は公益財団法人日本国際問題研究所理事長、ホテルオークラ取締役、セーレン取締役、三菱自動車工業取締役、富士通取締役。
概要
外務省経済局長、アジア大洋州局長、外務審議官(政務担当)を歴任し、2010年(平成22年)に民主党政権の野田内閣で外務事務次官として、韓国へ大幅に譲歩した「佐々江提案」を提示した。2012年(平成24年)にアメリカ合衆国特命全権大使に就いた。
来歴・人物
岡山県倉敷市児島[2]出身で、広島大学附属高等学校を経て1974年(昭和49年)に東京大学法学部を卒業[3]した。
外務省に入省し、英語研修を経て緒方貞子国連難民高等弁務官の補佐官、内閣総理大臣秘書官などを経て、2002年(平成14年)に経済局長[4]に就き、2005年(平成17年)1月からアジア大洋州局長として北朝鮮による日本人拉致問題や対中国外交などで交渉し、2008年(平成20年)に政務担当外務審議官に就いた。
菅内閣時の2010年(平成22年)8月20日に外務事務次官[5]人事が閣議決定[6]されると、「慰安婦問題に関して日本の首相が公式に謝罪する・日本政府が元慰安婦に人道主義名目の賠償をする・駐韓日本大使が元慰安婦たちを訪問して首相の謝罪文を読んで賠償金を渡す」と大幅に譲歩した「佐々江提案」を韓国政府へ提示したが、2012年(平成24年)3月時点で李明博大統領ら韓国政府は「人道主義名目の賠償では不十分だ」などと応じず、2012年12月の衆議院選挙では自民党が勝利して「佐々江提案」は解消[7]された。
2012年(平成24年)から2018年(平成30年)まで、アメリカ合衆国特命全権大使を務めた。外務省機密費流用事件を受けて小泉純一郎総理大臣の意向で柳井俊二大使が更迭されて以降11年ぶりで、次官経験者が駐米大使[8]に就いた。
略歴
- 1974年(昭和49年)3月 - 東京大学法学部卒業
- 同年4月 外務省入省、英語研修(米国スワースモア大学)[2]
- 1984年(昭和59年)4月 - 在米国大使館一等書記官[9]
- 1985年(昭和60年)1月 - 経済局国際機関第一課首席事務官
- 1987年(昭和62年)11月 - 欧亜局ソヴィエト連邦課首席事務官[9]
- 1989年(昭和64年)1月 - 北米局北米第一課首席事務官
- 1990年(平成2年)8月 - 北米局北米第二課長[10]
- 1993年(平成5年)9月 - イギリス国際戦略研究所研究員
- 1994年(平成6年)8月 - 国連難民高等弁務官 (UNHCR) 補佐官(在ジュネーヴ)[10]
- 1997年(平成9年)9月 - アジア局北東アジア課長
- 1999年(平成11年)7月 - アジア局参事官[10]
- 2000年(平成12年)4月 - 首相秘書官(森内閣)
- 2001年(平成13年)4月 - 総合外交政策局担当審議官
- 2002年(平成14年)3月 - 経済局長
- 2005年(平成17年)1月 - アジア大洋州局長
- 2008年(平成20年)1月 - 外務審議官(政務担当)
- 2010年(平成22年)8月 - 外務事務次官
- 2012年(平成24年)9月 - 在アメリカ合衆国駐箚特命全権大使
- 2018年(平成30年) - 大使離任、公益社団法人日本国際問題研究所理事長兼所長[11]、ホテルオークラ取締役[12]
- 2019年(令和元年) - セーレン取締役、三菱自動車工業取締役[12]
- 2020年(令和2年) - 日本国際問題研究所所長兼務解除
- 2021年(令和3年) - 富士通取締役[13]
同期
参考資料
脚注
外部リンク
公職
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先代 北島信一
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外務省経済局長 2002年(平成14年) - 2005年(平成17年)
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次代 石川薫
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非営利団体
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先代 野上義二
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日本国際問題研究所所長 2018年(平成30年) - 2020年(令和2年)
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次代 市川とみ子
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外務省 アジア大洋州局長 (2005年(平成17年) - 2007年(平成19年)) |
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アジア局 | |
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アジア大洋州局 | |
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外務審議官 (政務担当:2008年(平成20年) - 2010年(平成22年)) |
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政務担当 | |
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経済担当 | |
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外務事務次官 (2010年(平成22年) - 2012年(平成24年)) |
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外務次官 | |
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外務総務長官 | |
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外務次官 | |
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外務事務次官 | |
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代理公使・弁理公使 |
- 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使)
- 上野景範 1872(弁理公使a)
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特命全権公使 | |
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特命全権大使 | |
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在外事務所長 | |
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特命全権大使 | |
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a 外務少輔・外務卿代理を一時期兼ねる b 再任 c 遣アメリカ合衆国特命全権大使(在アメリカ合衆国特命全権大使の野村に加えての大使) d 1941年12月の日米開戦後に大使館が閉鎖されたため実質的に失職、両名は翌年8月の抑留者交換船で帰朝
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