伊藤正孝
伊藤 正孝(いとう まさたか、1936年(昭和11年)10月23日 - 1995年(平成7年)5月31日)は、日本のジャーナリスト、編集者。朝日ジャーナル編集長、朝日新聞編集委員。 経歴福岡市に生まれる。福岡学芸大学附属福岡中学校、福岡県立修猷館高等学校を経て、1955年、小説家志望であったため早稲田大学文学部に進学するが、中学・高校の同期で親友であった山崎拓が商学部に入学したこともあり、翌年商学部に転入する。なお、2人は中学時代に同じ文芸部に所属し、山崎が部長で伊藤は副部長であった。卒業後、山崎がブリヂストンタイヤに就職したため、伊藤も一時、同社に入社するが、1960年に朝日新聞に転職する。その後も山崎との親交は終生続いた。 朝日新聞では、鹿児島支局、福岡支局社会部、1969年、東京本社社会部、1970年、アフリカ特派員、1972年、東京本社政治部、1977年、ダルエスサラーム特派員、1980年、カイロ特派員などを務める。東京本社社会部時代には欠陥車問題を暴露。アフリカでは、ビアフラ戦争や南アフリカの人種差別問題を精力的に取材し報道している。鹿児島支局時代には、後に首相となる細川護熙と同僚であり[1]、細川との親交も生涯続いた。カイロ特派員時代には、小池百合子をアルバイトで雇っており、後に小池を『朝日ジャーナル』にも寄稿させ世に出している[要出典]。 帰国後は、外報部次長を経て、朝日ジャーナル編集部に所属し、1987年、筑紫哲也の後を継ぎ、編集長に就任する。編集長になった伊藤は、同年4月17日付朝日ジャーナルの、巻頭言「風紋」第1回の「野戦服宣言」と題したエッセイに、「いま『野戦服を着た知性』が必要なときかもしれない。『戦う雑誌』として、さあ、前へ。」と記し、朝日ジャーナルのその後の方向性を示した。この頃、有田芳生を見出し、朝日ジャーナルに寄稿させ世に出している。1990年、編集長を辞任後、編集委員として湾岸戦争の取材などに精力的に取り組んだ。 1992年7月の第16回参議院議員通常選挙で、小池は細川が代表を務める日本新党の公認を得て比例区から立候補し初当選を果たすが、小池を細川に推薦したのは伊藤であったと言われている[2][1]。 1995年、癌に倒れ九州大学病院に入院し、そこで死去した。伊藤の葬儀には細川、山崎も駆けつけ、山崎は涙を流して弔辞を述べた。 山内豊徳との関係1990年、高校時代からの親友で、当時環境庁企画調整局長をしていた山内豊徳を自死という形で失っている。自殺の原因は公表されていないが、政府と水俣病患者との間で苦しんだ末のことではなかったかと言われており、葬儀では伊藤が弔辞を読んでいる[3]。この経緯は、佐高信のノンフィクション『官僚たちの志と死』(講談社、1996年)や、映画監督是枝裕和のデビュー作となったドキュメント「しかし…福祉切り捨ての時代に」(フジテレビ 『NONFIX』1991年放送)で取り上げられている。 著書
出演番組
回想録
脚注
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